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2010年11月18日木曜日

量子力学的世界とインタラクションデザイン(2)

  • Wed, Nov 17
  • 03:50  量子力学的世界とインタラクションデザイン(2):
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  • 大澤氏の著作の第2部は「最初の科学革命」である。ニュートンの世界観が登場して普及するところだ。分析は17世紀から18世紀、フーコーが古典主義による表象の時代と呼んだ時期の絵画であるベラスケスの「ラス・メニーナス」の分析から。
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  • 03:54  この絵はフーコーの解析で有名である。絵は中心遠近法で描かれていて、消失点のところに人が描かれている。この人物の名前も分かっていて、ベラスケス、画家と同じ姓だ!外からの視点の内からの視点が交錯している。ガリレオの「天文対話」とニュートンの「プリンピキア」の中間時期に描かれた。
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  • 03:55  アリストテレスは天上界と地上界は別の法則が支配すると考えた。ニュートンはそれを同じと見た。地上に落ちるリンゴと天空の月は同じ法則で動いているとしたのだ。ではニュートンはどうしてそのような世界観を持つことが出来たのだろうか。それはルネサンス期の遠近法の貢献だ。
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  • 03:58  中心遠近法デューラーの有名な絵に描かれているように一点の窓を通して透かして見るということである。これは実際に我々が見ている世界とは違う。我々は目が二つあるからだ。また錯覚をする。つまり遠近法は現実からそうとう抽象されたものである。
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  • 04:00  古代遠近法とルネサンス時代の遠近法の間に中世の絵画の時代がある。中世の絵画は今見ると平面的に見える。前後の配置よりは事物の上下や横の配列が優先しているからだ。3次元から2次元へ、そしてルネサンスの3次元表現へと流れを中世の退行とみないのがパノフスキーの分析の優れたところだ。
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  • 04:02  彼は古代の絵画の立体感は空間を描こうとしているのではなく、触れることの出来るものを描こうとしているだけだとする。これが角度の遠近法だ。一方ロマネスク絵画とも呼ばれる中世の絵は出来事と空間が同じ平面に無理矢理投射されているからだとする。つまり物体と空間を一体視仕様としている。
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  • 04:06  つまり、中心遠近法が挑戦する均質な空間表現への挑戦と見たのだ。パノフスキーのこの議論を大澤氏はさらにもう一歩進める。それは誰が空間を見ているのか、という視点だ。一つはパノフスキーが指摘した遠近法の視野のピラミッドの頂点。「無限遠からの視線の前に現れる均質空間」(48P) である。
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  • 04:10  もう一つの視点は絵の中のベラスケス、つまり遠近法で描かれている空間の内部で成立する視点、つまり「無限遠の超越的視点」があるとする。つまり遠近法で描かれている空間は見る装置であり見られる装置であるということだ。この二つを同時に表現しようというのが古典主義時代だという。
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  • 04:13  僕は20年まえにシリコングラフィックス社のコンピュータが提供する3Dグラフィックスをみて動く遠近法的表現に驚き、いくつか大物のVRシアターを作ってきた。その一つはいまでも凸版本社にあるミケランジェロのシスティナ礼拝堂の展示である。故若桑みどりさんと僕とで丁寧に表現を検討した。
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  • 04:16  VRとは3次元の座標空間に二次元のイメージを貼り付けてそれを見ている我々の視点に合わせて描写する。ところが画面を大型化することでその空間の内部から描写を見ることになる。我々は見上げると曲がった空間を意識しているのでいろいろと不都合が起きる。そこで円形ドームとか工夫がなされる。
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  • 04:20  3次元座標軸表現がどこか不自然な感じがする。これとどう対峙するかが没入型VR表現の課題であった。さて、このような座標空間を導入したのがデカルトである。古典主義時代の重要な思想家だ。座標空間を外部と内部からみるという大型VRシステムの感覚は超越的視点を世界の内部で再現している。
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  • 04:23  ニュートンがプリンピキアで前提とした絶対空間と絶対時間は中心遠近法で内部と外部から空間を見ている視点なのだ。この視点が科学哲学者村上陽一郎氏がいうところの「聖俗革命」を生むと大澤氏は述べる。科学革命とは聖俗革命すなわち宗教の世俗化を伴った。世俗化は二つの特徴を持つ。
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  • 04:26  第1は真理の主体が変わった。全知の主体が神から人間へと移動した。真理は恩寵を受けた選ばれた者のみが到達できるわけではない、とF・ベーコンは抽象した。commonという卑俗な場所という意味の言葉がcommon science やcommon wealthといった肯定的な言葉になる。
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  • 04:29  つまり真理への道が一般の人にも開かれたのだ。それがcommonの意味を変えた。(54P) 第二は真理の内容が変わったと大澤氏は続ける。自然に関して獲得された知識は神そのものの知なのか神の行為に関する知なのか、ということだ。神ー人間ー自然から人間ー自然へと真理の内容が変わった。
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  • 04:31  つまり聖俗革命の渦中の科学者たちは神学者であり占い師でもあった。ケプラーは占星術師だしニュートンは錬金術の研究家だ。聖俗の分離はまだ終わっていない。したがってニュートンの説明には神秘的な痕跡が残っているという。それが引力である。引力は神の存在を前提とする。
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  • 04:35  この神が遠く離れたものを観察するには光がいる。ニュートンの均質的な空間と時間は光を前提としている。ニュートン力学の基本の重力と光の考え方は神の存在を肯定していることで成立しているのだ。(56P)面白いことにこの聖俗革命は科学だけで生じたわけではない。
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  • 04:38  聖俗革命は絵画の世界でも進行する。それは宗教画から独立した静物画、風景画、風俗画という分野が17世紀から18世紀に登場するのだ。おもしろいことにこうした新しい絵画は宗教からの脱却と言うよりは宗教そのものの変貌によって生み出されていったと大澤氏は述べる。(61P)
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  • 04:58  それは16世紀に描かれたピーテル・アールツェン(Pieter Aertsen Christ in the house of Martha and Mary)の「マルタとマリアの家のキリスト」という絵に見られるという。特徴は宗教画の前景が独立したものが静物画ということだ。
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  • 05:01  静物画は宗教画の添え物(パルレゴン)が独立したものだ。哲学者ジャック・デリダはエルゴン(作品)の横に作品とは対立したものがおかれていることをパルレゴンと呼んだ。その例が静物画なのだ。こうしたことが生じるメカニズムがある。それがフーコーが指摘したパノプティコンだ。
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  • 05:03  パノプテイコンは囚人を常に監視することが出来る仕組みであり、監視者の視線は全知全能の神の視線だ。それを物理的に表現したのが中世の修道院であり、監獄である。だが、観察されている人たちが観察されていると知らなかったらどうだろうか。全知全能は何も出来ない無能性と隣接しているのだ。
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  • 05:12  この時代を特徴付けるのは17世紀の画家が地図地球儀を描いていたことだ。遠近法の外部からの視点を内部から鑑賞しようという構図を構築しようとしていたのだ。こうした試みがなされていた時代この時代に絶対王政が確立した。
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  • 05:15  カントロビッチは名著『王の二つの身体』において、王が持つ自然的身体と政治的身体について語る。科学革命における天上と地上を同じと見る視線は、王の身体を自然と政治の一致としてみた絶対王政と同じだ。そして同様のことが経済でも生じる。
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  • 05:22  17世紀においてもっとも敬虔なキリスト教徒はプロテスタントであった。彼らが信じていたのは救済されるものはあらかじめ神が決めており、人間はこれを変えることができないとした。予定説という。これが資本主義を生み出したとは、社会学者マックス・ウェーバーの説である。
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  • 05:26  予測不可能な信仰の結果が救済への可能な通路であるという考え方はデカルト的な最初にだけ神があり、あらためて出来上がっている世界が始まるという考え方である。これはあらゆる先入観や予見を排除して現実を見ようというベーコンが唱えた経験主義と異なっているように見える。だが、そうだろうか。
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  • 05:40  ここで大澤氏はデカルトとニュートンの考え方を比較する。ニュートンは絶対空間(真空の空間)で物質が万有引力で相互作用すると考えた。デカルトは真空を認めることは出来なかった。なぜなら真空を認めると、「なにもないものがある」という背理に至るからだ。そこで物質を延長として定義した。
  • 05:43  デカルトとニュートンの対立は物理学においてはニュートンの勝利である。だが両者を神の絶対的な超越性の純化の二つの形と見る方がいいのではないかと大澤氏は述べる。つまり初期状態のみを設定するデカルト的な神と、いつでも何処でも神の存在を感じる、つまりは遍在している神の二つである。
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  • 05:46  ニュートンの万有引力は神に帰すしかない遠隔作用である。これはデカルトの機械論的な自然観とは異なる。神に超越性をもたせると、初期状態を神が設定し、そのあとの因果関係を遍在する神が保証する。デカルトとニュートンは同じ現象を説明していたのだ。
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  • 05:48  それを可能にするのが、つまり神が物体を見ることである。宇宙全体の統一性は光で、それも反射光学ではなく物質によって屈折率が違う現象を研究する屈折光学によって扱われることで、超越論的な存在となっていく。
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  • 05:51  屈折光学は光が直進することを前提としていた。この考えが崩れてくるのは19世紀である。それが光の波動説である。光は一点から放出され瞬時に目的地にたどり着くという考えに意義を申し立てたのが、光の波動説である。オーギュスタン・ジャン・フレネルが1812年に唱えた。(79P)
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  • 05:57  フレネルレンズという平らなレンズの発明者でもあるフレネルは光はエーテルというメディアをつかった波として伝播すると考えた。ニュートン力学は光を粒子として考えて特権的な位置を与えていた。それに対して、光は電気磁気という二つの物理現象と同じとされて研究が続く。
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  • 05:59  物理学におけるこの変化は絵画の表現の変化とも関係する。遠近法を駆使した古典的な表現に対して印象派が生まれてくるのがやはり19世紀なのだ。絵の具は混ぜると色が暗くなる。まぜないで多様な色を得るためにはどうすればいいか。印象派は太陽の光を描こうとして従来の手法の限界にぶつかる。
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  • 06:02  おもしろいのは印象派の画家にのって光は超越論的なものではなく、経験によって議論できる対象だったことだ。光は世俗化した。大澤氏はこの流れを示す絵画としてターナーの「光と色彩(ゲーテの理論)ー洪水の後の朝」(1843)を上げている。太陽そのものを直接に描いている絵だ。
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  • 06:08  Wikipediaでイメージが公開されているので参考までに。 Light and Colour (Goethe's Theory) - the Morning after the Deluge - (1843) http://bit.ly/cBIfEq
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  • 06:13  太陽を描いているターナーの絵は世俗化した光を表している。神の視線であった光を人間が見て、描いている。光の波動説、つまり電磁や磁気と同列に光が扱われ始めた時代に、絵画も光を描き始めたのだ。光の位置は古典主義の時代の神の視点から人間の視点へと変わっていったのだ。
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  • 06:15  そしてこの時代はもうアインシュタインの相対性理論の世界だ。さて、大澤氏の本の第2部では万有引力と光というニュートンの物理学の基本が神の存在無しには証明できないものであったこと、そしてこのような超越的な神こそが古典主義の時代の産物であったことを学んだ。
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  • 06:17  超越的な神が絶対王政も資本主義も生み出した。だが神をこのような超越的な場所に置いたが故に社会や文化が世俗化していく。その切っ掛けは光が波であると言われ、電磁や磁気を同じ現象として論じられ始めた。ここから古典的物理学は変わり始める。
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  • 06:18  さらに近代を築いた遠近法もまた変わり始め、古典的絵画とは違う印象派が登場を始める。光もまた世俗化したのである。ここまでが第2部最初の科学革命のパラフレーズである。つぎはもう相対性理論が登場する。また機会をみてまとめることにする。(この項、完)
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  • 06:31  補遺:ニュートン力学についての哲学的意義を大澤氏の本『量子の社会哲学』をもとに紹介したが、高校生レベルの微積分が終わっている人は山本義隆氏の『重力と力学的世界』を手にとって欲しい。いままでの説明を理解していると、かなり深いレベルでニュートン的世界が分かる。
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2 件のコメント:

  1. 荘周夢為胡蝶 : 荘周、夢に胡蝶となる
    荘周は夢の中で一匹の胡蝶になっていた。

    いつのことだったか、荘周、つまりこの私は、夢の中で一匹の胡蝶になっていた。ひらひらと空を舞う胡蝶である。心ゆくばかり空に遊んで、自分が荘周であることも、もはや忘れはてていた。ところが、ふと目覚めてみれば、まぎれもなく私自身。荘周以外のなにものでもない。いったい、荘周が夢で胡蝶になったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。世間の常識に従えば、荘周と胡蝶とはたしかに別物である。だが、「物化」-すなわち生々流転してやまない実在の世界においては、夢もまた現実であり、現実もまた夢である。荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周であって、そこになんらの区別もない。)

    吾生也有涯、而知也無涯、以有涯随無涯、殆已、已而為知者殆而已矣

    人間の生命には限りがあるが、知の働きには限りがない。生命のこの有限性を度外視して、知の赴(おもむ)くままに無限を追求すれば、安らぎの訪れるときはない。私どもは、この道理を承知していながら、しかも、知から離れることができない。

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  2. 奥出先生:お早う御座います。

    先生の講義は常にExcitingです。モウ一度、若返って先生の生徒になってみたいなと思わせます。それなのに、最近はチャチャの入れっぱなしで申し訳けありません。しかし乍ら、先生の今回の講義は、極少数の、楽々と抽象概念を処理出来る脳を持つ、生徒さんしか付いて行けません。90%以上の生徒さん達に『今回は理解出来なくても大丈夫だからね』と、慰めのメッセージを送っている訳でして、お許し下さい。残りの90%以上の生徒さん達も、人生経験を重ねて、色々な事例を経験して、そこから実例付きで上位概念を抽出、出来る様になると、良く分かる様になると思います。コーヒー豆が入っていないのに、上から熱湯を掛けても、美味しいコーヒー液は落ちて来ませんモノね。

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