- Sat, Nov 27
- 10:01 「英語初級講座第5回」のTweetsをblogにあげました。一週間に一回ずつ進めていくと身に付きます。 http://okude.blogspot.com/2010/11/fri-nov-26.html
- 16:06 英語に関して@BebsonJPの意見はそのとおりで、僕の師匠の英語論と同じです。20年前のグローバル化の時代にはそんな感じ。つまり必要な人だけが英語をすればいい。SFCはその理念で作られた。まあいろいろと茶々が入ったが英語以外の教育に関しては画期的な成果が出た。
- 16:08 20年経った今、世界は急速に多極化している。工場は外国に展開し、そこで生産された物が日本以外のところで流通する。円高になってもびくともしない日本の会社も登場してきている。そして、大きなマーケットはインドであり中国であり、ちょっと遠いがブラジルだ。インドマレーシアも市場だ。
- 16:10 そしてすぐにアラブ圏が市場になり50年経てばアフリカも市場となる。西洋中心の世界が500年ぶりに変わり、アングロサクソン中心の世界が200年ぶりに変わる。この激動の中で生きていく訳である。このコンテキストをふまえて英語それもグローバルイングリッシュとしての英語の必要性を感じる。
- 16:12 それをつかう人は少数でいいと思う。誰もが英語を学ぶ必要はない。だいたいイタリア人だって中国のいくつかの言語を使う人だって、スウェーデン人だって母国語を一生懸命使っている。それでいいのだ。市場はしたたかで人々の欲望は国境も文化も超えて動いていく。商人はどこにでもいくのだ。
- 16:14 言語は他者を支配する道具であり焚書坑儒つまり前の文化を断つ活動は統治の基本だ。戦後の日本の国語教育によって戦前の知恵の継承ができていないのが団塊の世代以降の日本人だ。なので僕は英語を会社の公用語にとか、小学校から英語教育をするとかそういった議論はナンセンスだと思っている。
- 16:16 普通話でかかれた中国の文献を研究する人間が言葉に習熟する。政治をケンキュする人間が言葉を学ぶ。つまり言語能力は戦略的な武器なのだ。だとすると、ロシア語や韓国/朝鮮語を学ぶ人間はもっと必要である。これは鈴木孝夫の『武器としての言語』での主張である。
- 16:17 20年前には日本人はだれからも強制されていないのに欧米の文化を学び英語にコンプレックスを持った。そのコンテキストで考えると英語教育はナンセンスだ。ここには全く同意するのである。なのでSFCをはじめて15年くらいまったく英語教育には興味がなかった。学生にも英語を強要していなかった。
- 16:19 僕の研究室の初期のつわものたちは本当に英語ができなかった。でも全く問題なく社会に進出していまでも重要なポジションで活躍している。その流れが少し変わってきたのが、外資系の会社が進出してアメリカのエリートビジネススクールの卒業生が金融資本主義を日本に持ってきてからだ。
- 16:22 それでも外資系でほとんど英語がしゃべれないバンカーが重職をしめていることもある。商人は利益を出してなんぼだから。でもここ5年いや7年くらいか、ちょっと流れが変わってきた。それが多極化を前提としたグローバル化である。つまりアングロサクソンヘゲモニーの外で世界が動く。
- 16:24 そうなったときに、もちろん英語でなくても普通話でもいいのだが、リンガフランカが必要になる。日本語がその一翼を担うべきだと鈴木先生は主張していて、僕もそれは分かる。がまあ先の話だろう。クールジャパンのようにソフトパワーが増大しているのでいくつかあるリンガフランカの一つにはなる。
- 16:26 このレベルの英語であればあえて時間をかけて教える必要はない。自分で学んでくれればいいのだ。だが、経済においては多極化が起こっているにもかかわらず、文化はあいかわらず英語ヘゲモニーが強い。発信はグローバル英語あるいはPlaine Englishでいい。
- 16:28 受信が問題。横暴なまでにヴァナキュラ-英語話者同士が英語を母語としていない人間の前でしゃべる。これははっきり言ってやめてほしい。全部リンガフランカの英語で話してもらいたい。だが、言語の武器性を考えるとそうはいってられないところがある。
- 16:30 勝手に密談しているところにのりこんでかき回したい。またいつもアウェイで戦うのもしゃくだから、こちらに呼び込んでホームで試合をしたい。そんなところから博士課程の学生の英語力のトレーニングをしているし、そこにいってもいいかなと思っている学生にも英語を教えている。
- 16:32 英語をはなすことに疑問をもっていなかったり、ちゃらちゃらと英語をたれながしている人間にいま僕が考えている武器としての英語を教える気はない。アメリカ人やイギリス人の用に英語を話すことに憧れている人も願い下げだ。西脇順三郎のように、日本人であることをのろっている人もお断りだ。
- 16:34 だが、その一方で、英語力に問題がない留学生にもアリストテレス的修辞学のトレーニングは行っている。ここに英語が母語でインテリの所詮「ネイティブスピーカー」が教師として入ると話は全く分からなくなる。「ネイティブスピーカー」になるために英語を使っている訳ではないからね。
- 16:36 まあここまで確信犯的に英語を教えている。Plain Englishでアリストテレスの修辞学/詩学の形式をふまえて、自分の感じていることをそのまま話す、これが目的である。経済力の次には思考力というか文化力の大変動を10年から20年の間に引き起こしたい。そうおもって教えている。
- 16:39 倫理や美学といった主観的な領域において多様性のくさびを打ち込みたいと思っているのだ。ポピュラーカルチャーにおいては十分多様性が保証されていると思っている。所詮ハイカルチャーでも同じように挑戦したい。翻訳大国である日本に感謝をして、様々な言語による思想を学びつつ、挑戦したいのだ。
- 16:41 本腰を入れて3年ほどだがいいところまできている。あとちょっと。中学校までアメリカにすんでいた学生だともうそのレベルになっている。チェコからの留学生もいい感じだ。普通の大学生活を送った学生ももう一息のところまできている。21世紀の倫理と美学を構築する先兵たちの武器としての英語だ。
- 16:43 このような英語の教え方はいわゆる語学教育とかではむりだし、具体的な数値として方法の成果をもとめてくるので大学教育ですら制度に組み込めない。なので私塾的に勝手に教えているのである。語学は権力的支配の道具になってしまうので、安易な人からは学べないのである。
- 16:45 というわけで全然一般の学生のことを考えて英語を教えている訳ではない。KMDは英語と日本語で授業をしているが、日本語を選択した人には日本語で、英語を選択した人には英語で教えている。英語で日本人学生に教えるという愚かなことはしていないのである
- 16:48 初級英語にかんしては、僕は大西さんや松澤さんの本は本当に素晴らしいと思っている。確実に力がついて武器となる。だが英語教育ビジネスとは相容れない。ダイエットや自己啓発本と同じで口当たりが良くないと商売にならないのだ。それは大学教育の英語でも結局は同じ。
- 16:50 なので、今回は時間をかけて自習すれば武器としての英語を本格的に修行するレベルに達するまでを時間軸(一週間一回一時間30分のレビューセッション、およびその準備に一日30分から一時間をさく)をふくめて提供しているつもりです。その先の英語の達人レベルに関しては勝手にやる。
- 16:52 まあこんな仕組みになっています。枠組み的にはリンガフランカとヴァナキュラー論で提示したものと同じです。ネイティブの英語話者にはplain Englishで話せ、無礼者!という気持ちでいつもいます。
- 16:54 おまけですが僕の道楽であるJazzのスタンダードの歌詞は移民の子供が「正しい英語」を学ぶためあるいは学んだ結果というものがおおく、ある意味「誰のものでもない英語」になっています。
- 16:55 フランス語が国家を統一する機能を要求されてアカデミーフランセーズによって人工語になったように、アメリカのスタンダードの歌の歌詞は多様な民族が同じ言語をつかう工夫に満ちています。なので人工語における表現もあるのだなあと思ったりしています。このあたりは脱線ですが。
- 17:02 Tweetsしていたら、もう5時。今晩のジャムセッションの楽譜を用意しないと。今日は長丁場だからな。
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2010年11月28日日曜日
なぜ英語を学ぶのか
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