- Tue, Nov 02
- 19:06 イ タリア現代思想 美学をかんがえる その2:
- 昨日Tweetsした美学の話がまだ難しいとのことで、もうひと頑張り、分かりやすく説明してみたい。。政治を論じて も、経済を論じてもイタリアの哲学者は美学にその出発点をおいている。イタリアでは美学が学問の中心にあると行っていい。
- 19:11 そ の中心となっているのはベネディット・クローチェである。イタリアでは美学は「芸術」に限定された話ではないのだ。またイタリアの芸術はコピー、反復、 シュミュラクルに他ならないとも言われている。起源やアイデンティティや土着性の不在は当たり前であり、文化とは折衷的なものである。
- 19:22 ロー マは故郷やアイデンティティをもたない。あるいはギリシャは衣服の下にある肉体に美的な価値と心理を見いだし、ローマは衣服と肉体との関係に美を見出す。 イタリアのモードの卓越性とエロティシズムの所以はここにあるのだ。この視点から分かりにくいとコメントされた生(ビオ)について説明する。
- 19:25 現象学で身体を論じるときにフッサールが「私に固有の身体」という考えを提唱して、ハイデガーからフランス哲学のメルロポンティまで「生きた身体」という捉え方をしてきた。意識や主観をこえる身体、あるいは肉そのものとしての概念を主張していた。肉の哲学になっていた
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- 19:30 イ タリアの哲学者は現象学的な身体にたいして、関係性あるいは共同体的な身体に注目し、政治と倫理と美学が交錯する肉体の問題を論じようとしている。個別の 思想家についての紹介は後日にゆずるが、肉体が生成され、運動し、ほかの肉体と不協和を起こし、刺激と恍惚と官能をうみだす表現に注目が行く。
- 19:33 こ のような表現は歴史をさかのぼればバロックだし、現在ではネオバロックと呼ばれる一連の活動だ。リズムと反復、極限と過剰、細部と断片、移ろいやすさと変 貌、混乱と混沌、渦と迷宮、などきりがないが、クラシックにたいするバロックを強く意識するところにイタリア美学の重要な要素がある。
- 19:36 バ ロック的な表現においては主体は内側から立ち上がってくるのではなくて、外から到来する。内面をからに、外から来たものに耳をそばだてる。バロックの大切 な概念は機知、才知、綺想(コンチェット)である。この言葉はコンセプトと同義であり、「受胎する、いだく」という意味だ。場を与える言葉だ。
- 19:39 美 学とはとくにバロック美学とはこうしたことを感じる感受性であり、その適応対象は芸術や文化に限定される必要はない。そしてここからがポイントである。こ の感覚を、身体を人間に限定しないで、人間同士、人間とものとの関係性の中に潜む肉体的に感じることができる表現にまで拡大する。
- 19:42 バロック表現の装飾が織りなす豊穣な色香は人間が生み出す必要はない。機械があるいは無機的なものがセックスアピールをもっていてもいい。あるいは性的な表現を連想させるアンドロイドというものは人間モデルに従属している点で、モダンの枠のなかにとどまっていると言える。
- 19:44 ポ ストヒューマンの射程を無機的な世界に広げ、そこに肉体的な表現を感じることができるとすると、哲学と美学のみならず、医学と倫理学、政治と宗教、経済を 巻き込む大きなテーマとなる。どこまでが人間でどこからが機械かのつまりはビオスとテクネの境界線をあえて引かなくてもいいのではないか。
- 19:48 だ が、現実にはテクネが暴走して、核開発に始まり遺伝子操作にまで到達した。万能の技術が生をむき出しにして放置してしまっている。われわれはそれを目の当 たりにして呆然とたたずんでいる。そしてイメージの氾濫である。かつてベンヤミンが商品のファンタスマゴリーと呼んだ世界が登場した。
- 19:52 こ の世界を目の当たりにしたときの感覚はかつてカントが崇高と呼んだものだ。存在の圧倒的な迫力で構想力が混乱して表現ができなくなる。表象不可能になるの だ。カントはこの混乱を「理性」で乗り越えようとした。拙著『思考のエンジン』で書いたが、カントは論理的に表現できたものを良きものとした。
- 19:56 だ が、論理的に整理されたなかにはパッションはない。パッションを歌う詩学は表現を分かりやすくする修辞学と分かれてはいけないのだ。この二つを分けて考え たのはアリストテレスであるが、もう一度原点に戻る。すると、表現とは過去の偉大な作家や詩人の作品を模倣すること。そして競うことである。
- 20:01 模 倣(ミメーシス)は自然に接近するテクネであり、本物になろうとすればするほど偽物になるが、模倣のプロセスで、偉大な作品の本質の原初的な存在のありよ うに出会う。ダイナミックなプラトンの復権である。生(ビオ)とは技術や政治や経済や倫理の営みの中のロゴスとパッションのせめぎ合いだ。
- 20:04 せ めぎあってバロック的な表現になり、そこに官能的な美を感じる。その状態が生(ビオ)である。この視点をとってみると、現在さまざまな領域でビオが欠如し ているだけではなく、生身の身体が美をうしなった状態で放置されている状況が見える。ここに対して生(ビオ)を取り戻す。
- 20:05 デ ザインの力はそこ(ビオを取り戻すところ)にあり、デザインは美学を生活や社会のあらゆる側面に適応していくことでばらばらにされてしまった世界を取り戻す方法だ。ドイツ/フランスの現象学が存在 の確認に手間取っているうちに、イタリアの美学はいろいろなもののつながりの中に存在を呼び込む方法を展開してみせたと言えよう。
- 20:08 駆 け足で岡田さんの本を参考にイタリア美学を説明してきた。これからしばらくはこのような美学をまとめあげたベネディト・クローチェについて考えていきた い。幸いに翻訳も多く、英訳も多い。それだけ偉大な美学者だということになる。イタリア未来派の評価も彼抜きには語れない。実は否定的なのだ。
- 20:09 オイコスにくらす人間や、オイコスにおかれる道具たち、こうしたものが生をとりもどすためにデザインは働かなくてはいけない。このあたりのことが一緒にプロジェクトを行っているメンバーが分かってくれるとうれしい。(完)
- 20:14 イ タリア現代哲学と美学:補遺 哲学的な検討をなぜ行うのか、デザインはただ作ればいいではないか、という意見がある。だが作る力をもったときにこそ、ここ で展開していることが問題になる。オイコスのなかのモノをデザインするときに、肉体をむき出すようなことになってはいけない。
- 20:16 力 をつけたエンジニアやデザイナーが倫理の問題を意識的に無視したり、気がつかなかったりすることが多い。世界を創造することができる、つまりプロメティウ スの気分になる。だがそんなことはない。世界を救うというのも思い上がりなら、世界を気にしないのも高慢だ。技を身につけたら周りを見ろ!
- 20:17 公共圏のなかでデザイン行為をつづけること。ばらばらになった世界に生をとりもどすこと、世界を美しく保つこと、人を幸福にすること。そのためにはテクネだけではだめなのだ。(この稿、本当に終わり)
analysis
2010年11月3日水曜日
イ タリア現代思想 美学を考える その2
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