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2010年11月20日土曜日

量子力学的世界観とインタラクションデザイン その4

  • Fri, Nov 19
  • 09:23  量子力学的世界観とインタラクションデザイン その4:
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  • 第4部 量子力学の神秘:  さていよいよ量子力学の考え方の理解に挑戦する。学問にはなんというか序列があって、いまのところ物理学が一番偉い。その方法をまねて自然科学は学問を行う。だが、僕はそうしたことを行ってはいない。
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  • 09:24  ここで僕が行っていることは社会科学や人文科学を物理学の方法にならって「科学」にしようとしていることではない。ここをしっかりと理解してもらいたい。近代的な意味でインタラクションデザインを科学にする必要は全く感じていない。量子力学を持ち出してきているのは別の意味だ。
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  • 09:31  それはまさに世界観につきる。どのように社会をみるのか、そのメカニズムをニュートン力学から量子力学に変えようという話だ。もちろん「科学」の世界はある。だが赤木昭夫氏が『反情報論』でつかっている表現をかりれば情報哲学の世界もあるのだ。ソーカル事件のように科学を詐欺的に拡張しない。
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  • 09:33  これは科学哲学者達が明らかにしてきたことでもある。科学に固有の見方だと思っていたらそれが社会に共通の見方であり、時代と共に変わっていく。その考え方をパラダイムという。あるパラダイムと別のパラダイムは共約不可能性(incommensurability)にある。つまりお互いを理解できない。
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  • 09:34  だが目の前の現象に引きずられてパラダイムが変わっていくことがある。これを科学革命と呼ぶ。ニュートンの時代が最初の革命だった。その次が量子力学である。あいだにあるのが合理性を拡張したアインシュタインだ。量子力学は1920年代に登場する。第一次世界大戦後である。
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  • 09:37  量子力学は特定の天才的科学者によって作られたものではない。多くの物理学者がその誕生に貢献している。それも意図しない結果の連続が量子力学を生み出している。始めは1900年にマックス・プランクが電磁エネルギーは量子という形をしていると述べた。
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  • 09:39  だが、プランク自身は保守的な研究者で、量子は計算を間違えてたまたま発見したといわれている。また執拗に量子力学に対抗したアインシュタインもまた初期の量子力学に貢献したと言われる。このあたりはまた改めて論じると大澤氏は筆を進める。(128P)
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  • 09:45  量子力学者のリチャード・ファインマンは、量子力学について理解している人はだれもいないと述べている。その謎の核心は光の「波動と粒子の二重性・相補性」だと言われる。ニュートンからアインシュタインの説明を空間の問題とあわせて説明してきたが、結局の所、光をどう扱うかにつきる。
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  • 09:49  なぜ光が波としても粒子としても理解できるのか。有名な解釈はニールス・ボーアによって展開された「コペンハーゲン解釈」である。彼らは光の波は「確率分布」を表していると解釈した。波の高い部分で光子や電子が見つかる率が高く、実際に観察するとそこに波ではなく粒子が見いだされるとした。
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  • 09:51  これを「波束の収束」という。だが、これだけでは問題は解けない。なぜならその確率、つまり可能性が客観的なところが量子力学の神秘だからだ。可能性は主観的で人間の内部の話だった。自然には可能性がない。未来は人間が選択的にかかわるから主観的で可能性が考えられる。客観的な可能性はない。
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  • 09:54  ここはよく分かる。現在の組織の意志決定を見てみるとマックス・ウェーバーの言う合理性の鉄の檻にはいっていて、過去の数字の客観性と未来の不確定性を繋ぐ方法が見つからず、どんどんじり貧になっている。量子力学的世界観が確立していないからだ。
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  • 09:58  ニュートン的世界観では合理的に行っても、えいやっと主観的に行っても何も生まれない。だが、量子力学的世界観では客観的な自然が確率つまり可能性を宿して存在している。(131P)ここの理解が量子力学的世界観がわかるかどうかのキモである。この説明に使われるのがシュレジンジャーの猫だ。
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  • 10:04  客観的で現実的な(actural)な可能性の世界。これを猫にたとえる。猫が部屋にいる。そのへやに電子が検出されると毒ガスがでて猫は死ぬ。電子が存在している確率は50%である。窓から猫をみると死んでいるか生きているかの猫を見ることになる。で問題は見ていないときだ。
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  • 10:07  その時の猫の存在をどう考えるか。普通は死んでいるか生きているかを知らない状態、と考える。だが量子力学的世界観では「50%生きていて50%死んでいる猫がいる」と考える。これはどんな猫なのか?この質問に直接答える前に大澤氏はこの世界観が科学以外の分野にも登場していたとする。
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  • 10:11  それはフロイトの「死の欲動」である。この補助線は上手い。精神分析者として無謬の場所を提供していたかに見えた精神分析が第一次世界大戦を境に変わる。戦友が死んだ瞬間を何度もおもいだして、ああすれば助かったのではないか、こうすれば生きのびたのではないか、と何度も考える。
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  • 10:21  こうした切実な思いを繰り返しているうちに過去の決定的な瞬間が偶有化する。偶有性(contingency)とは必然性と不可能性の両方の否定によって定義される様相、つまりは他でもありえたと見なしうる様相のことである。(134P)
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  • 10:25  過去に起こったかもしれないが起こらなかった可能性が随伴していたということだ。contingencyという英語は簡単に言うと確かに起こるとは保証できないけれど可能性としては起こるかもしれない未来の出来事である。
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  • 10:29  ここからは僕の説明だが成功したらボーナス出すぞ、つまり成功報酬contingency feeと訳す。そして未来だけではなく過去も偶有性をもつ。つまり「過去は、その規定された自ら自身と同等の現実性actualityをもった他なる可能性を随伴して現前する」。大澤氏の説明である。
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  • 10:33  客観的な過去をめぐって、可能性と現実性が直結する。(134P)可能性とは確率分布である。それが現実性となる。つまり存在する。新しい存在論の登場である。インタラクションデザインに確率過程を組み込むとはまさに新しい存在論を実践するということなのだ。議論をさらに続けよう。
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  • 10:47  大澤氏は第13章を二つの孔と題して、有名な二重スリット実験を手短に紹介する。リチャード・ファインマンはこの実験を「いかなる古典的な方法でも説明が不可能、絶対に不可能な現象であり、この現象の中に量子力学の核心がある」と述べたという。(136P)
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  • 11:14  さて、この有名な「思考実験」は実際の実験やコンピュータシミュレーションなどで何度も実行されている。この実験が正しいのか、あるいは相対性理論と量子力学をつなぐ超ヒモ理論はどうか、という物理学の話に持っていくのではなくて、物の見方としてこの実験を見てみよう。
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  • 11:17  以下の実験の説明は大澤氏の文章を参考にしつつ、僕の方法でまとめてある。インタラクションデザインに展開しやすい説明に変えてある。では始めよう。ファインマンが提唱した有名な2重スリット実験の基本は粒子と波とをまずわけで説明することである。まず光が粒子だとする。
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  • 11:20  スクリーンの前に縦に一本細いスリットが入った板を立てる。そこにむけて機関銃のようなもので光子を次々と発射する。スリットを通り抜けた光子がスクリーンに到達する。結果として縦に一列の痕跡が残る。次にスリットの数を2本にする。同じように光子を機関銃で次々と撃ち出す。
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  • 11:25  するとスクリーンには二本の縦線ができる。ここまでは分かるだろう。次に光を波と考える。プールにスクリーンと縦一本のスリットの入った板を考える。波を板に向けて送ると、スリットを通って波がスクリーンにあたる。スリットが一つの場合は真ん中に強い線がでる。ではスリットを二本にすると?
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  • 11:29  それぞれのスリットをとおって2つの波が発生し、それがぶつかると干渉を起こす。粒子の時は2本の別の線になったが、波の時は干渉が起こるのでスクリーンの模様は異なる。干渉が起きたところはラインができず、干渉のなかったところは筋が出来る。つまり干渉縞ができる。これが波の特徴だ。
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  • 11:36  さて、ここまでは粒子と波の実験である。では実際の光の場合はどうだろうか。スリットが一つのときは一本の筋だ。ところが二本にすると干渉縞が生まれる。そこでスリットをとおるときにどのようにふるまっているのかを観察する。すると、干渉縞はできず、2つの痕跡がスクリーンに残る。
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  • 11:41  見ていないときは波で、見たときには粒子になる。これが光の性質である。観察すると粒子になり2本の筋をスクリーンに作る。観察しないと干渉縞である。これはどのようなことなのか?さて、ここからすこし科学としての量子力学から離れることにする。
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  • 11:43  この思考実験のような現象を説明できる存在論とはどのようなものなのか?これを考えていきたい。話はアリストテレスに戻る。リンゴが落ちているとき、地上に近くなると速くなるのは、「僕の場所は地面だから、うれしくて駆け足ではしってしまう」というのがアリストテレスの目的論的説明だ。
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  • 11:46  それを大学生の科学哲学の授業で聞いたときに奇妙な感じがしたのは、義務教育から高校の教育にいたるまで、物質には意志がないことと物質の動きは万有引力の法則に従うというニュートン物理学の存在論が染みついているからだ。
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  • RT@drinami 日立の二重スリット実験 http://ow.ly/3cgDt は感動的でしたね
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  • 11:48  奥出です。外村氏の実験ですよね。こうした確実な積み重ねを評価して、僕たちの世界観(存在論)を豊かにする科学研究を推進してもらいたいものです。
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  •  Fri, Nov 20
  • 07:26  量 子力学的世界観とインタラクションデザイン その4(続き):さて、リンゴの話を続けよう。アリストテレスの目的論の面白いところはリンゴに気持ちという か心があるとして説明している点だ。これを「対象に帰属する知」と大澤氏は呼ぶ。これを万有引力として自然体系の知つまりは外部にだした。
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  • 07:29  こ れがニュートンによる科学革命である。量子が「あっ、みられた。やばい形を変えよう」と思うと量子力学の観測問題は理解できる。するとアリストテレス的な ものに付属する知が感じられる。ただ、このときものはアリストテレス的な一ではなくて、二あるいは多となっている。ここはなかなか複雑だ。
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  • 07:32  スリットが一つの時はものには知が付随していない。ニュートン的に動くのだ。ところがスリットが二つになると光子が「あっ、二つになった。行動を変えよう」といった感じに状況を知識として「知っている」ように解釈せざるを得なくなる。
  • 07:35  ここは大切だ。「光子は単独でも干渉をおこすのだから、ある意味で、こちらの孔とあちらの孔とをともに同時に通過していると見なさざるをえない。単一の光子 が、言わば、自己分裂して、自分自身と干渉しているのである。とするなか光子の知はどこに帰属しているのか。」(142P)と大澤氏は述べる。
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  • 07:37  さ て、次のところがさらに大切。「それは、こちらの孔の位置にある光子とあちらの孔の位置にある光子との双方に同時に帰属していると言うほかない。対象にお ける知の帰属先がアリストテレスの体系の場合とは違って二カ所に分裂しているのである。」(142P)このあたり理解できるだろうか?
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  • 07:41  量子力学的世界観があるといま引用した大澤氏の文章が理解できるということである。知は二カ所どころか無数に分裂して存在している。21世紀の目的論の世界だ。いまここで分からなくてもいい。まだこの話は道半ばである。だが折り返し点にはきた。ここからさらに話は進む。
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  • 07:46  あ る現象を複数の視点から同時に見てそれによって統一性を感じる。量子力学の世界観は神秘的で独特だが、孤立した文化現象ではない。それは20世紀初頭の芸 術の革新運動と連動している。量子力学での可能性とは「客観的な実在性」をもつと説明した。これはニュートン的世界観での可能性とは違う。
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  • 07:49  孔 が二つあって光子が右の孔を通過する確率が50%、左の孔を通過する確率が50%だと言う場合、ニュートン的世界観では、光子は右か左かの孔を通過するの だが我々の知り得た情報が不十分なため、光子の未来の経路について十分な確信をもって予知できない、と解釈する。(143P)
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  • 07:51  だが量子力学での解釈は、単一の量子が自己分裂をして二つの孔を同時に通過していると考える。この解釈の方法は物理学だけはなく、ニュートン的世界観の基本にある遠近法に支えられていた絵画の世界にも登場した。それがピカソなどによって用いられたキュビズムである。
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  • 07:55  キュビズムは対象を様々な側面から観察してそれを一枚の絵にしたものである。複数の視点からの観察を仮想的な平面に投射している。この手法の登場で「長きにわたって西洋絵画を支配してきた規範、中心遠近法、が息の根を止められる。」(145P)
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  • 07:58  さ て、複数の視点が同一の平面に共存して全体を示すキュビズムの形は非常に量子力学的世界観に近いというか同じものだと僕は感じる。だがアインシュタインは こうした世界観は理解できないと主張した。アインシュタインは量子力学に対して合理的世界の延長で理解できないと批判し続けた。
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  • 08:02  大 澤氏によるとアインシュタインの批判に答える形で量子力学は大きく進歩したという。その例としてアインシュタインとポドルスキとローゼンが指摘した量子力 学のパラドックスがある。例として、量子の世界に登場する粒子の「スピン」という性質が上げられた。アインシュタイン達の論理は次のようだ。
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  • 08:11  二 つの粒子がセットになったシステムを想定する。二つの粒子の総計はゼロであるとする。一つの粒子が上向きのスピンを持ちもう一つが下向きのスピンを持つ。 ここでスピンに影響を与えないような形で二つの粒子を遠く引き離す。そして一方のスピンを変える。例えば磁気を与えて上向きを下向きにする。
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  • 08:13  するとどうなるか。スピンの総和が保証されなければならないのだから上向きが下向きになったとき、遠くにあるもう一つのスピンは下向きから上向きに向きを変えなくてはならない。これが量子力学の解釈法だが、そんなことは起こらないとアインシュタインは言う。
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  • 08:14  ス ピンの向きが変わったことをもう一つのスピンがどうやって瞬時に知るのだ?というのがアインシュタインの主張だ。スピンの変化の情報が物理的な最高速度つ まりは光速を超えて伝えられたことになる。だが、どんな物理現象も光速より速くは伝達されないので、この解釈は背理であるとしたのだ。
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  • 08:21  ところがこうした現象があることが実験で確かめられた。アインシュタイン(E)ポドルスキー(P)、ローゼン(R)の頭文字をとってEPR効果と呼ばれる。離れた場所にあるもう一つの粒子の状態を瞬時に知ることができる。それは二つの孔の実験と解釈の枠組みは同じだ。
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  • 08:27  粒 子の一つが遠く隔たった場所に連れて行かれた瞬間にお互いの粒子はお互いの状態を知っていた、ということになる。つまり観察者ではなくて粒子に知が帰属し ている。しかしアリストテレスの時と違って二つ以上に客体が分裂しているときに限られる。これが可能であればEPRのパラドックスは解ける。
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  • 08:29  大 澤氏は述べていないが、これはコンピューティングの世界では量子暗号などの世界で行われていることである。また量子テレポーテーションなどの画期的実験も 最近行われている。ちょっと結論を先取りだが、コンピューターネットワークによる複数(無数)のコンピューティング連鎖は量子力学的なのだ。
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  • 08:31  ちょっ と先走った。まだ分からなくて良い。ここで理解しておいてもらいたいのは、二つに分裂した客体同士が瞬時にして、互いに互いのことを知り合うのはパラドッ クスだとするアインシュタインの考えに対して、量子力学ではそれは可能だとする。とするとその解釈の仕組みはどうなっているのか。
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  • 08:36  こ こで大澤氏は絵画の歴史から補助線としてキュビズムをひく。ピカソはキュビズムへの舵をきったとされる「アヴィニョンの娘たち」(1907)を紹介しなが ら、この絵に大きな影響を与えたとされるセザンヌへと議論を進める。(150P)セザンヌは印象派とキュビズムを繋ぐ画家である。
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  • 08:45  大 澤氏はミシェル・テヴォー『不実なる鏡』(岡田温司訳)によるセザンヌ分析をつかって議論を進める。セザンヌの「サント・ヴォークトワール山」、「プロ ヴァンスの山」あるいは「水の反映」といった作品では描かれたここの事物の輪郭が明確ではなく周囲に溶け込むように描かれている。(151P)
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  • 08:50  テヴォーは「ここの形態に遠心的な力が負荷されているため、私たちがその形態に注意をむけるやいなや、それは解体してしまう」と述べる。(151P)したがってセザンヌの絵画の真の主題は事物ではなくてむしろ空隙だ。古代ギリシャは主題は物であった。
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  • 08:55  パノフスキーによると古典主義の時代は空間にある物が描かれた。それがセザンヌになると、空間いや空隙が主題となった。えがかれたものに注意を払うとそれは解体してしまうとはなんとも量子力学的ではないか。注視が形態を破壊する現象は不確定性原理だ。
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  • 08:56  位 置の不確かさと運動量(あるいは速度)の不確かさの積はある一定の値(プランク定数)より大きくならない。したがって「粒子の位置を正確にとらえようとす ればするほど(位置の不確かさをゼロに近づければ近づけるほど)その分、運動量や速度が不正確になる。」と大澤氏は説明する。(152P)
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  • 08:59  凝視すればするほど粒子はどこともなく逃げ去るのだ。このような経験は量子力学の実験室に限らず、我々の日常世界においても頻発している。それは<他者>を巡る体験においてだ。これは解釈学的民族誌として僕がデザイン思考の講義でおしえていることにもつながる。
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  • 09:04  私 が他者を対象としてとらえようとすると他者はたちまちのうちに生気のないただの物体へと変化する。私が見るということを大澤氏は求心化という言葉を使う。 見ている私が他者の目にさらされていることを遠心化と呼ぶ。他者を他者として意識するにはこの二つの動きが同時に存在している必要がある。
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  • 09:07  こ れを一枚の絵にあらすとキュビズムになるのだ。さらに私を見る視点、遠心点は無数にあることになる。私が相手を見ることは相手が私を見ることと同じであ る。私がそれに触れることとそれが私に触れることは同じだ。この二つに因果関係は必要がない。これが量子力学的な世界観なのである。
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  • 09:11  こ の世界観をさらに理解していくためには観測という問題について議論を進める必要がある。これが第5部以降のテーマだ。ゼロから一が生まれる瞬間の考え方を検討 していく。今回は量子力学的世界観とは複数に分裂している状態のモノに知が属しているという仕組み、確率過程が客観的に実在する、を検討した。
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  • 11:06  @BebsonJP (前略)これが量子力学的な世界観なのである。// これは、大昔からTaoism や禅が言っている事でもあるのですね。>>そうですね。この二つの思想の共通性を指摘する本も大分出ています。新科学なんてものもありました。思考枠組み としては非常に東洋思想的です。  [in reply to BebsonJP]
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  • 11:08  実 はそうした思考枠組みからの説明ではモノの見方の説明に留まり、実際に設計論に展開することはちょっと難しい。もちろんTaoismの視点からプログラミ ングやエンジニアリングを説明することも出来るのですが。今回のTweetsでは禅などとも通じる世界観がどのように設計に関わるかが山です。
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1 件のコメント:

  1. BebsonJP Bebson HOCHFELD
    @NaohitoOkude > 私が相手を見ることは相手が私を見ることと同じである。私がそれに触れることとそれが私に触れることは同じだ。この二つに因果関係は必要がない。これが量子力学的な世界観なのである。// これは、大昔からTaoism や禅が言っている事でもあるのですね。

    @NaohitoOkude Naohito Okude
    実 はそうした思考枠組みからの説明ではモノの見方の説明に留まり、実際に設計論に展開することはちょっと難しい。もちろんTaoismの視点からプログラミ ングやエンジニアリングを説明することも出来るのですが。今回のTweetsでは禅などとも通じる世界観がどのように設計に関わるかが山です。

    BebsonJP Bebson HOCHFELD
    @NaohitoOkude Taoism は駄目です。グウタラ大好き思想ですからね。(:-P でも禅には生きて打って出る躍動感があります。戦国時代の武将も戦いの精神的バックボーンは大概『禅』です。禅的、全的、デザイン・設計なんて素敵じゃありませんか?日本人が大活躍出来る世界では?

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