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2010年9月13日月曜日

民族誌とデザイン思考について


  • 09:50  @yamtomこ れはすべてのケースには当てはまらないと思う。「心から尊敬」という言葉で何を意味するかにもよるのだろうが。>>貴重な意見。そうだね。でも民族誌調査 からデザインへという流れを考えると、尊敬できる他者とその日常世界をみつけないと、民族誌からのデザインはできないのだよ。  [in reply to yamtom]
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  • 10:00  @yamtom (前略)でももう一つのほうはどうひっくり返っても「心から尊敬」は無理なのです。>>分かります。政治とか倫理の問題への関与も必要だなあとは思ってい ます。ただここでも美学・デザイン・パッションでがんばれないかなあとも思う。いずれにしてもwicked problem。  [in reply to yamtom]
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  • 10:07  @yamtom さんのTweetsをフォローしている。議論、おもしろいね。僕は解釈的人類学の衝撃を30年前に受けて、マテリアルカルチャーで博士論文を書いて、分野をインタラクションデザインに変えて今に至るわけだけど、いまだに古い社会科学パラダイムの議論があるんだな。  [in reply to yamtom]
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  • 10:09  デ ザイン思考の民族誌的手法とマーケットリサーチの手法の相性の悪さは当然で、これは現象学的手法がウィノグラードによってインタラクションデザインに持ち 込まれたときにもう議論されている。Usabilityとかそんなかたちの証明には何の意味もない。解釈による主観的な創造が基本。
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  • 10:11  ルー シー・サッチマンが民族誌的手法を導入して計画のデザインではなく状況的行為(situated action)の場のデザインを提唱したのもずいぶん前だ。彼女の手法が独立して、民族誌研究者とデザイナー・エンジニアのコラボレーションという幻想が 生まれたのがXerox Parc。
  • 10:13  つ まりは幾ら調査をしてデータを分析しても、そこに主観的にデザイナー・エンジニアがからまないと何も生まれない。そこでは調査データの背後に真実があると いう素朴な実証主義は通用しない。だが、にもかかわらず、主観的解釈による創造の間に、共通のパターンが発見される。何故だ?
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  • 10:15  この問題を早急に解くと、僕の分野だと、ケネス・フランプトンやクリストファー・アレキサンダーのようなパターン言語になってしまう。近代科学の外にあるのだけれど、なんらかの規則性があるように見える。文化人類学者はこの問題に答えようとして、いろいろな理論を試した。
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  • 10:18  文 化の型も、ベイトソンのサイバネティックスの応用も、構造主義人類学もその挑戦の歴史に過ぎない。解釈的人類学の面白さは、牧師が今日の説教をするための 手引きとして聖書解釈学を利用していたことに習って、民族誌を考えたところにある。真実を教えてくれるのではなくて、説教の仕方の指南。
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  • 10:20  民 族誌的手法をおしえるときに、批判的文化人類学つまりは文化人類学者がもっている調査するものとされるものの政治学への無頓着への批判をふまえて、糾弾で はなく、文化を語る(説教する)ときの指南書を考えてみる。これが僕の民族誌への取り組み姿勢。文化人類学とは25年前におさらばしてるけど。
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  • 10:22  社 会科学者がいるあつまりでこの話をすると、何故いまさら30年前のギアツなんだと質問を受けるが、僕にはこれが一番性に合っているし、またデザインを考え ると確実にhumaneな結果が出る。10年ほど前に出たAvailable Lightというギアツのエッセイ集を読んで納得。
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  • 10:27  兵 隊として戦争に参加しGIビルで奨学金をもらってへんてこな大学に進学し、そこからなぜかハーバード。新しい社会科学をでっちあげようというあくの強い先 生に翻弄されながら、調査を続け、解釈学に至る。論理立証主義に対して主観的な表現の積み重ねで挑戦する。この姿勢には感心するしかない。
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  • 10:32  @yamtom (前略)私はギアツ以降の、フェミニズム的/歴史的/ポストモダン展開以降の教育を主に受けてきた。>>そうだね。僕は文化人類学がこの段階に入ったころ に「さよなら」をした。畏友の今福龍太は頑張ってるけど、ぼくにとっては民族誌のポストモダン的実践がデザイン。ところが・・  [in reply to yamtom]
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  • 10:35  デ ザイン思考で民族誌的調査がクローズアップされるとともに、産業人類学的な流れもよみがえり、まあこの人達と話をするのはめんどくさいなとあまり関係して いません。一方、フィールドワークにでてみると、フェミニズム的/歴史的/ポストモダン的状況を無視することは出来ない。
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  • 10:38  例えば、死んでしまった人の記憶と自分の存在を確かめる行為がデジタル環境によって濃密なまま保持されるようになると、そこに大切な価値を感じる気持ちと、それを「汚れている」と考える立場がぶつかる現場が生まれる。精神性の問題が立ち現れる。
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  • 10:41  あ るいは在宅医療の現場をみると、行き場のない生身の身体を面前にして医師も看護婦も介護の人も立ちすくむ瞬間がある。ホモ・サケルを面前にする。ここをど うにかしようとすると、グラウンデッド・セオリー・アプローチを使いながらも、やはり何か新しい方向をつくろうとデザインしている。
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  • 10:42  生 身であること、精神世界を感じること、そうした現場に論理実証主義で立ち向かうことは出来ない。説教をする牧師のように、その日その日、その場その場で問 題を解決しなくてはいけない。そんなときに、その指針となるような日常世界解釈学(聖書じゃなくてね)を考えているわけです。
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  • 10:46  で まあ、話は最初に戻るのだけれど、そうした日常世界を直視してデザインという行為を繰り返すために、民族誌の経験は貴重だということです。自分の世界が拡 大して他者を理解するまで変化する。この経験をしていると、他者に対する寛容が生まれ、政治権力が日常世界に顔を出す危険な兆候を感じる。
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  • 19:56  今 日の民族誌のTweetsに付け加えておく。僕が「相手を尊敬してラポール」の問題に突き当たったのはアメリカ黒人文化の民族誌を行おうとした時だ。黒人 研究は社会科学的にはハイエクと同時にノーベル経済学賞を1974年に受賞したミュルダールのAn American Dilemmaが主流。
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  • 19:58  僕 は社会問題としての黒人問題よりも黒人の文化に興味があった。それもアメリカとは異なる価値観、ミュルダールの場合は母系制だったりアフリカ的特徴 Africanismといった文化還元主義よりアメリカの現在の黒人文化に興味があった。これをこのまま研究できないか。黒人文化を肯定的に見る。
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  • 20:00  チャー ルズ・カイルの『都市の黒人ブルース』という画期的な本がでて、シカゴの黒人文化そのものの魅力もわかってきた。だが文化人類学の方法論だとどうも収まり が悪い。どうしても調査者を低く見る。だいたい、僕は日本人だし、支配側の人間でも何でもないし。そんな時フィラデルフィアで学会が。
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  • 20:03  そ こでヘンリー・グラッシという民俗学(フォークロア)の学者がパネルセッションで発言しているのを聞いた。1981年だったかな。文化人類学者は人が隠し ておきたい問題を根掘り葉掘り聞いて民族誌を書く。民俗学者は人が自慢をすること(クラフトや民謡)を記録する、と述べた。これだと思った。
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  • 20:07  問題点を発見したり指摘したり(縦社会の構造とかね)するのではなくて、パフォーマンスそのものを記録する。この考えが気に入った。民俗学は理論的な展開とか哲学的な思索に入っていくことのない学問で、それを追求する気はなかったが、この態度は気に入った。
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  • 20:09  そ の後、ギアツを読み、『文化批判としての人類学』なんかを教科書に使いながら、民族誌についての僕の立場を構築していった。いま授業でつかっている「師 匠・弟子モデル」ほかについては拙著『デザイン思考の道具箱』で説明しているので割愛。パフォーマンスそのものから現象学・解釈学へと向かった。
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