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2010年9月28日火曜日

身体性、デザイン、アカデミズム

  • 13:32  現 代哲学で身体性が問題になるとき、それは近代スポーツの身体とは全く別物である。近代スポーツの身体はむしろ機械であり、ギリシャ哲学がもとめた完璧なる 身体に向かっていく方向が現代に現れたものである。ナチズムの肉体礼賛映画を撮ったリーフェンシュタールみたいなものだ。
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  • 13:36  哲 学で言う身体性とは、人間が身体行為として身に付けている高度な技や仕草の事である。国文学の先生に小唄長唄三味線の達人が多いことや、内田樹前田秀樹 といった武道の達人の仏文学者もいる。近代の合理的なシステムの研究者は運動が嫌いな人が多いが、エンジニアはスポーツをたしなむ人が多い。
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  • 13:39  世 の中には合理的判断の範囲外にありながら、何かをなすと出来てしまう、という不思議な領域がある。ここが身体性の思想が活躍する場所だ。頭脳が支配する外 にあり身体が統括しているにもかかわらず出来てしまう。デカルトにあるいはギリシャ哲学から始まる知性とは眞逆の世界である。
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  • 13:41  儀 礼や祈りなど宗教行為は人間の身体性を知り尽くして活用して人々を幻惑させる。新米の医師はベテランから殴られ怒鳴られ身体で医療行為を覚えていく。この 能力が発見されるのは最近の事だ。19世紀の音楽やバレーの教則本を見てみると、人間を機械にたとえて、その動きを練習させている。
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  • 13:42  このように大事な身体性であるが、運動選手から学者になった人の研究計画書を見ると、意外にみなアンチ身体派なのにはびっくりする。研究計画書の審査をすることもこの年になるとあるので、読むのだが、徹底した合理主義である。論理実証主義の方法で議論を進めようとする。
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  • 13:44  身 体の不思議なところは機械的な動きをしないところにある。ほとんどが確率過程の世界でありながら、パターンを生み出している。このデータが語ることは何 か?そこにこそ身体性の思弁を駆使して欲しいのだが、非常にニュートン力学的だ。同じ事はユーザビリティスタディにも入れる。計測しすぎ。
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  • 13:45  車 の乗り心地とかハンドリングとかの「色気」は計測できない。色気のある車を数値で表すことが出来ても、数値で色気のある車は作れない。建築も同じだ。クリ ストファー・アレクサンダーのパターン言語は間違いではない。良い建築はパターン言語を持つ。だが、それを組み合わせても良い建築にならない。
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  • 13:49  ま あ自然界のことは微分するのは簡単だが、それを積分するのは大変。解ける問題ばかり扱っているから積分できると思うけど、そうは問屋が卸さない。結局解け ることを探すことになり、それはかなり直感的な世界だ。ここに自由に分け入って答えを見つけるとき、分析から実践へと行為が変わる。
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  • 13:52  こ こが身体性なのだ。身体計測の科学でもなければ、名人や達人の実践のパターンを発見する行為でもない。単語があつまり詩になり、いろいろな材料があつまっ て、輝く形になり、身体の動きが統合されてバレーダンスになる。その瞬間が身体性 embodimentと呼ばれている現象である。
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  • 13:54  embodimentのある行為をするということは分析的な論文を書くという行為とは異なる。KMDの博士論文は自分の活動がなにかすばらしいものにembodimentした瞬間を記録して欲しい。いや修士論文も同じだ。つまらない分析を幾ら積み重ねても、だめだ。
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  • 13:57  自 分の身体を解放して自在に動かし、何かを達成する。達成する行為はかならず身体の動きを伴っており、それによってのみ表現は修練していく。生きてくるの だ。幾ら論文があってもenbodimentしていなければ駄目だ。そしてそのことは一目で分かるのである。だが最後に一言付け加えたい。
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  • 14:00  ス ポーツ的身体能力に優れていたり、デザイン表現が優れていても、KMDの博士はだめだ。僕が優秀だと言うことを自分の存在で証明しても駄目。かつて、言語 学者ヤコブソンは小説家ナバコフをハーバード大学教授にすることに反対した。「象を研究するのに象を雇う必要はありません」と言ったのだ。
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  • 14:02  自分のやったことを魅力的に、論理的な流れを保ち、物語として、そして誰でも分かる明確さ(明証性)を持ち、自分の声で語る。ここにKMDの修士も博士も到達して欲しい。偽善と魔術と俗物根性はいらない。アカデミズムだからね。

5 件のコメント:

  1. 能や歌舞伎の身体性を如何お考えですか?
    武術の世界では王向斎師の意拳や太成拳、沢井健一氏の太気拳等に身体性が認められる様に思われます。

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  2. ウップス!『身体性』の私なりの定義をしないで書き込みをしましたね。私の『身体性』の定義は:頭で考えて体を動かすのではなく、体それ自身が《何かに反応》して、《体自身の知性》で自律的に動く事を言います。後で頭で考えて『オヤ!如何してあの時に自分の体が、あの様な(素晴らしい)動きをしたのだろう?』とユウ動きが、私の『身体性』です。

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  3. In other words: 身体性=身・体制(establishment●framework●structure●system)

    頭が考え及ばない事を、体が難無くと行ってくれる時に、体の知性はヒョットして、頭脳が持つ優れた論理的知性よりも、深く賢いのではないかと思わされますね。本来、頭脳は体に対してドノ位の優位性を持つべきなのでしょうか?組織に於いても、ショボイ上司であった私が自分の出来ない事には口を全く挟まずに放置していた所、部下達の努力で大変に素晴らしい業績を上げた事が実に何度もあって、不思議な経験でもありました。そんな訳で、オーケストラの演奏で、指揮者の存在が意識されずに消滅し、演奏者の楽器だけが、そこにあって響いているが如きの演奏が、実は最高の演奏なのではないかと考えている次第なのです。

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  4. ウップス!漢字を間違えちゃいましたね。

    王向斎師の意拳や太成拳 --->
    王向斎師の意拳や大成拳

    太極拳じゃないんだからっ!(^_x);

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