- Tue, Sep 28
- 06:21 My Last Sony:
- 昔MyFirstSonyというプロダクトがあった。若者向けにスタイリッシュなデザインを連発していたSONYが子供向けに赤や黄色や青をつかいプラスチックをマテリアルとしてつかったものだ。一緒にメディアファニチャーの研究をしている柏樹さんもデザインしている。
- 06:23 昨日今度医療デザインの展覧会に出展するための機器Coconのデザインレビューを行った。Coconについては2010年8月号のAXISに紹介されている。それを切っ掛けに展覧会に出すことになったのでプロダクトデザインをすることになり、学生と柏樹さんとでワークショップを繰り返した。
- 06:25 美大出身でない学生にデザインの基本を教えているうちに、意外な人間に才能があることが分かったりして、面白い展開になっているのだが、その活動をレビューした。鉛筆によるスケッチ、模型による形の検討、CGを使ったプロトタイプなどを検討。きちんと線が描けるようになってきた。
- 06:27 この段階でもう一度メンタルモデルの検討。医師と看護婦が使いやすいというところまでは昨年の段階で到達している。介護の人や患者の家族のメンタルモデルを検討するのが今年の課題である。医師や看護婦にとっては患者の身体は客観的なものだ。だが医療を学んでいない介護の人や患者の家族は違う。
- 06:29 一昨年、医師と看護婦と介護の人が集まる会で僕は講演をした。多職種連携というのだが、医療従事者とそうではない人が協力するのが在宅医療の現場であり、その実践を職種を超えたコミュニケーションで行うことが必要という話をした。それがいまのCoconにつながるわけである。
- 06:31 そのとき、看護婦の資格をもっていて、介護を行っている人が、「患者がからだにチューブをつけて退院してくると、医療の訓練のない介護の人はひいてしまう。でも普通に介護をして良いのだ」という話をした。そのときはそうだなと思ったのだが、「ひいてしまう」ということは悪いことだろうか。
- 06:33 病院の中での身体は文化的社会的なコンテキストを剥奪されて身体が肉体として露出している。究極は手術室であるが、ICUから病室へと移動しても、基本的に肉体である。プライバシーがないという表現をするが、そういった社会的な判断をこえて肉体そのもの。病院という制度の中ではそれが前提だ。
- 06:37 在宅医療ではその「肉体」が家庭につまりはオイコスに帰還する。身体がおさまるコンテキストに肉体がはめ込まれる。日常生活の内在的秩序が破壊されるのだ。ここをどのように修復するのかが在宅医療における大問題である。生と死の境界線を引き受ける仕組みがいるのだ。そのことを実感する経験をした。
- 06:39 Coconを1ヶ月フィールドテストをするためにターミナルケアを行っているある在宅医療の現場にCoconを持ち込んだ。残念なことに5日目に患者の方がなくなった。そのとき、遺族の人がCoconに残されたデータを見ると亡くなった人の事が思い出されていとおしいと述べたのである。
- 06:41 データは医療行為に必要な即物的なものである。だがそれが思い出につながる。患者とともに家庭に存在している機械は肉体を計測する道具という無機質な存在を超えて、人に精神的な意味をあたえるモノに変わり始めていた。24時間患者をモニターするということはいつも患者の横にある、ということだ。
- 06:42 フィールドワークで老人の生活をしらべると、親戚や友人からの写真や手紙、お参りしたときの絵馬、孫のお土産の人形などが1カ所に集まっていることがおおい。コミュニケーションセンターだ。ベッドに臥せることが長くなるとベッドサイドがコミュニケーションセンターになる。
- 06:45 そこに置かれて、家族とともに思い出を形成していくモノとしてCoconはデザインされるべきなのではないか。糖尿病の子供を支援するデバイスが任天堂ゲームボーイのアクセサリーとして販売されている。治療をいやがる子供のためにおもちゃとしてデザインされている。だが大人だって治療はイヤだ。
- 06:47 ターミナルになるといつか別れが来る。そうした局面に肉体として遭遇するのではなく、人間の身体としてつまりはオイコスのなかで向かい合う。自分のことを覚えておいてもらう、亡くなる人を覚えておく。こうしたコミュニケーションを支援するデザインとはなんだろうか?
- 06:48 自分の祖父や祖母が亡くなったときのことを思い出してみよう、と学生に聞いてみた。いろいろな意見が出た。24時間監視するのではなく24時間みまもってくれるというのはスローガンで言っても受け入れられない。見守ってくれるモノにはそれに相応しいデザインがある。お地蔵さんとかね。
- 06:50 そういった議論をしているときにふとMy Last Sonyという言葉が浮かんだ。まあいまのSonyのデザインがこの世界に出て行く感受性をもっているとはとても思えないが、最後の旅に出るときに持っていたくなるようなデザインとはなにか。さらにそれをモダニズムの文脈で語る必要がある。
- 06:52 なぜモダニズムか。それは最近の銀行の広告に良くあるように皆が家族に囲まれて遺言状をととのえて幸せに亡くなっていくわけではないからだ。役所には孤独死の人を火葬した骨壺がどんどんおくられてくると川崎市の人から聞いたことがある。いわゆる無縁社会だ。ここまで届くようなデザインが必要だ。
- 06:54 65歳をこえて最後の旅にでるまでをしっかりと支援する(見守る)世界をデザインしていく。これは高齢化社会をこれからむかえていく日本や中国の大きな課題である。デザインを決めて制作するまであと1ヶ月。頑張っていこう。
- 07:39 補遺:通常のユニバーサルデザインがこれまで述べてきた精神性について全く触れることがないのは、オイコスにおける身体を見る目がなく、肉体を見ているだけだからだ。日常生活の中に機器をいれるためには便利さだけではなく、新しい美学が必要である。ここに向かい合って仕事をする感受性が必要。
analysis
2010年9月29日水曜日
My Last SONY
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מענטש טראַכט, גאָט לאַכט.
返信削除Mentsch tracht, Gott lacht.
Man thinks and plans, God laughs.
エデンの園でアダムとイブがリンゴを食べてしまったので、そこには居られなくなってしまいました。現代医学がお年寄りに《延命治療》を開始して以来、人間はオイコスに居られなくなりました。時に介護の方々に手伝って頂きながら、オイコスに於ける自然死を選択する事が可能で容易になれば、老人は、昔そうであった様に、より幸せな終末を手に入れる事が出来る様になると思います。
或る御老人のtweetより:自分で大便、小便の始末が出来なくなったらもう死に時だね。妻も含め、他人に嫌々下の世話されて生き永らえるよりも、象の墓場みたいに自分で行ける死に場所が有れば良いなと思うよ。///////
返信削除《死に時》良い言葉ですね。
1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2 生るるに時があり、"死ぬるに時があり"、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
Zeit zu leben und Zeit zu sterben.
1 Ein jegliches hat seine Zeit, und alles Vornehmen unter dem Himmel hat seine Stunde.
2 Geboren werden und "sterben", pflanzen und ausrotten, was gepflanzt ist,
3 würgen und heilen, brechen und bauen,
4 weinen und lachen, klagen und tanzen,
5 Stein zerstreuen und Steine sammeln, herzen und ferne sein von Herzen,
6 suchen und verlieren, behalten und wegwerfen,
7 zerreißen und zunähen, schweigen und reden,
8 lieben und hassen, Streit und Friede hat seine Zeit.
日本に"本物"の『在宅医療』が生まれる時に(デザインされる時に)、"本物"ではない"不要"な『入院医療』は死に絶えて行くでしょう。奥出先生の学生さん達、皆さん頑張って下さい。
返信削除『過而不改、是謂過矣。』現代医学(科学も)の多くの領域で左の言葉が当てはまる様に思われます。何か検察の暴走を思い起こさせますね。勉強の出来る頭デッカチの秀才の皆さんには、本当に歯止めが掛かりませんね!