analysis

2010年6月2日水曜日

21世紀デザインは何のために

  • 2010年6月1日
  • 10:22  これから何回か書くことは志のある社会起業家であれば「あわれみの経済援助なんか要らない。自分たちで立ち上がるからじゃましないでくれる」と経済援助ポリティックスに言ういう気持ちと同じだ。「哀れみのデザインなんか要らない。人生を楽しく過ごせるデザインを創るじゃまをしないでくれる」。
  •  
  • 10:25  最近デザインを行う「大義」として環境問題や貧困問題をあつかう傾向がある。だがなにが「環境」でなにが「貧困」なのか?ちまちました機能主義とミニマリズムを組み合わせてデザイナーが作品を作り続ける。展覧会までしている。しかしそれってどうなの?まったく自分の手を汚さずにデザインをしてる。
  •  
  • 10:26  こう言うと、「いいえ発展途上国でボランティアをしていて半端な気持ちではやっていません」と答える。だがそうか?君が見ている国は「貧しい」のか?「発展途上」なのか?自分たちで一生懸命生きているのではないのか?そこにお節介を焼いて、自己満足をしているのではないか。
  •  
  • 10:28  もちろん、搾取はあるし、暴力はあるし、酷いことになっている地域もある。そうした地域に関わりたければ政治的に闘争するべきだ。あるいは経済活動をみずからの哲学のもとにそうした場所で行えばいい。だが、困っている人を救うデザインを前面に出してもらっても困るのだ。
  •  
  • 10:31  消費者を恐怖に陥れるマーケティングを行って巨額の富を築いて貧しい人を助けている人がいる。それも良いだろう。ちょっと古いが紳士による富の還元だ。でも、それは金を社会に還元している行為が尊いのであって、「貧しい」とか「こまっている」という定義を勝手に人々に与えている傲慢さを感じる。
  •  
  • 10:32  いま中国、インド、ブラジル、そしていずれイスラム国、あと30年以上すればアフリカが資本主義社会に参入してくる。資本主義と民主主義と社会主義にわかれて抗争をしていた20世紀が終わったのはちょっと前だ。いまではほとんどの社会が資本主義を原理に動いている。
  •  
  • 10:34  一方で民主主義への挑戦も盛んだ。功利主義にからめとられた資本主義に対して民主主義はコミュニティの原理を前に出している。社会主義のユートピアはかなり絶望的な社会ではまだ生きている。だが、基本的には資本主義の原理が世界を覆っている。
  •  
  • 10:36  資本主義においてはいま貧しいと言うことは将来豊かになるかもしれないという希望でもあるのだ。民主主義にとって、豊かになるとは、因習的な身分制度による不公平な富の分配が無くなると言うことだ。この二つのイデオロギーを丁寧に社会や文化の状況にあわせて摺り合わせていくこと。これが寛容だ。
  •  
  • 10:38  いま創造性の教育がいわゆる先進国で問題になるのは、いま貧しい国の子供は将来豊かになるという希望をもてるが、豊かになった先進国の子供に希望が無いことにも関係する。学校の成績が良くても「創造的に」ならない。もちろんすでにシステムが出来ている社会では成績が良くても豊かにならない。
  •  
  • 10:40  デザイナーは購入したら豊かになる気がする製品を企業のためにデザインしてどうする、とEttore Sottosassは言った。貧しい少年を救う道具をデザインしても、それを買うお金は貧しい少年にはない。アメリカの金持ちをだまして芸術っぽいデザインを売る。これも手だ。しかし、それでいいのか?
  •  
  • 6月3日追加分
  • 10:34  社会的な問題意識をもってとりあえず動いてなぜ悪いのか。それはデザインを提供する相手、他者のコンテキ ストとインタラクションしていないからだ。「開発途上の国の人」を「助ける」装置をデザインして、国連かどこかから金をむしって「中国」の工場で格安に 作って、それを持っていく。
  •  
  • 10:57  これでは既存の途上国援助の仕組みと変わらない。お金があるからそこで仕事をするのが何故悪い、というプ ロダクトデザイナーもいる。だがパパネックが『生きのびるためのデザイン』で議論したことはもっと深いところに意味がある。また社会的問題を市場とは別の 原理で解いても意味はない。(書名訂正)
  •  

Powered by twtr2src.

0 件のコメント:

コメントを投稿