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2010年5月7日金曜日

メタデザイン

  • Fri, May 07 
  • 07:41  日本の携帯電話を開発している人たちって実は凄い技術もセンスも持っていると思う。iPhoneやi-Pad と比べものにならない。ハードだけではなくてソフトも同じだと思う。それを束ねるメタエンジニアリングを尊敬するというか評価する枠組みがない。どうしてなんだろう?(続く)
  • 07:51  consenttoという概念がある。イタリアの思想家Antonio Gramsciがhegemony(覇権)という概念に合わせて使ったもの。支配は上からの力だけではなくて、支配される者が支配している人を支持する(好きになったりする)。それがconsentto。
  • 07:54  hegemonyとconsentto。政治学の概念だけど、イノベーションの方法にも深くつながる。メタエンジニアリングでありメタデザインの世界だ。これはKMDではポリシーの領域で、google, kindle, i-Padへのconsenttoを断ち切れという岸さんの激は卓見だ。
  • 08:12  じゃあ翻って、過去の日本の製品はメタエンジニアリングが良かったのか。実は零戦も大和も駄目だったんだな。日下公人氏の名著『失敗の教訓?もう一つの「ゼロ戦」論』『「大和」とは何か?巨大戦艦にみるソフト学』などに詳しい。いまの日本の大企業は全く同じ。メタエンジニアリング・デザイン不在。
  • 08:14  イノベーションは要素を組み合わせて新しいモノを創り出すこと。だけど、組み合わせたときに「全体」として存在しなくてはいけない。現象学的に言うと「生きて」いなくてはいけない。これがコンセプト。無から有が生まれる瞬間。ここがメタデザインでありメタエンジニアリング、両方同じ事だけど。
  • 08:17  生きているもの、コンセプトがあるものは見て使ってすぐ分かる。頭にぎんぎんきて身体がドキドキする。子犬を抱えたときの感じだ。これを感じる感受性を大事にして、あとはtry and errorだ。新しいコンセプトを創造するとはこの作業の繰り返しである。作ったモノに命を感じられるかだ。
  • 09:02  ユーザーのことを考えても良いものは作れないとのたまう愚か者のデザイナーとエンジニアが増えている。良いものがつくれないのは自分の創造力の欠如。じゃあなぜユーザーの事を考えるのか?それはエンジニアやデザイナーが自分のつくるものの消費者である時代が終わったから。
  • 09:05  欲しいという欲望がよいエンジニアリングやデザインを生む。社会が貧しい時代は欠乏を埋めることが欲望になった。それが20世紀だ。デザインは皆が共有する欲望を上手に形にする方法となった。だが、いまデザイン能力を持っている人の欲望あるいはビジョンが社会が求めているものと一致していない。
  • 09:10  ずるい方法はエコロジーや開発途上国支援などだれでも必要性を感じているものをデザインすることだ。これだと文句はでない。いまプロのデザイナーはここしか考えていない。だが、我々の日常生活 のデザインはどうするのだ?医療、都市、娯楽、通信、住宅、教育、これで良いのか?デザインは要らない?
  • 09:23  19世紀末にジョン・ラスキンの影響をうけてウィリアム・モリスは「小芸術」(lesser art)を提案する。これは国家や組織の為の大芸術ではなく、日常生活のための芸術という主張だ。日常生活に芸術を持ち込む、これがArts and Crafts運動となる。
  • 09:27  ではArts and Crafts運動とは何か。民芸品を西洋風のリビングに置くことではない。たとえば、「グリーン・ダイニング・ルーム」では、フィリップ・ウェッブとモリスが建物、壁紙、ステンドグラスを、パネルの人物画はバーン=ジョーンズ。自然と抽象と幾何学模様のデザインになる。
  • 09:29  日常生活を観察すると人々はそれなりに工夫をして生活をしている。専門用語でappropriationという。しかしそこにはデザインはない。デザインとは要素の統合と全体的な一体感、そして輝くような魅力が一体化したものだ。これを生み出すには高度な技と感性がいる。デザイナーの領域だ。
  • 09:33  デザイナーは絶対王政時代は王様につかえるしもべであり、市民社会ではブルジョワジーに夢を売る「芸術家」という商売人であり、19世紀末には技法のために命を捧げる変わり者(芸術家)となり、20世紀には工業社会で消費者に財布を開かせる魔術師となった。だが、日常世界にデザインはあるのか?
  • 09:34  過激な社会主義者でもあったモリスのデザインした日常生活を楽しくするさまざまなものたちは今でも買うことが出来る。でも、高価だ。この思想を受け継いだモダンデザインは大量生産のための方法となった。繊細な日常生活を豊かにするデザインは20世紀には実現しなかった。
  • 09:36  だが、突然日常生活にデザインを持ち込む多くの障害がなくなった。工夫してどうにかしのいでいるところにワクワクとしたモノやサービスを提供することが可能になったのだ。なにをデザインすればいいのか、これには日常生活の工夫を発見しないといけない。民族誌を書くのはそのためだ。
  • 09:39  日常生活の観察からインスピレーションを得る。ここには社会性が必要だ。次にコンセプトを作る。創造力が必要となる。次にそれを触れることが出来る形にする。これもコンセプトだが、モノを作る技法が必要だ。そしてそれを利用者に使って、もう一度デザインをする。ここには社会性が必要だ。
  • 09:43  デザインとは日常世界を観察し、人々の工夫を発見し、そこにワクワクするファンタジーをもったモノやサービスを創造し、それを再び日常生活に戻し、社会を幸せにする。そうした行為だ。デザインという言葉が技法に特化したため、すべてのプロセスにデザインを適応すると宣言したのがデザイン思考だ。
  • 09:46  従って、発想法ワークショップの方法論ではない。観察し、コンセプトを作り、社会に持ち込み、社会を変革する。これが本当のデザイン思考である。2〜3日の合宿で学べるものではない。1年2年とかけて身に付けるのだ。以上、早朝講義だったが、KMD一年生諸君。デザイン基礎の中間発表期待してる。
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