analysis

2010年9月13日月曜日

福沢諭吉・半学半教・実学・KMD

  • Sun, Sep 12 
  •  
  • 06:47  福沢諭吉は半学半教といった。慶應においては先生は福沢一人(というか、先生はいないということ)。学生は仲間であり卒業すれば社中。僕の先生の一人である高橋潤二郎氏は、僕が慶應で教え始めたときに「教えたら駄目だよ。教えたいことがあったら背中で教えるんだ」と言った。
  •  
  • 06:50  教壇があることも嫌った徹底した平等主義者。まさに天は人の上に人を作らず。でも怖い師匠だった。「人間は不完全なんだ。だからお互いにもたれ合って暮らす。そのときに上からああしろこうしろと計画を押しつけては駄目だ。自由とは人が繋がり会う自由であり、社会はそれを邪魔してはいけない。」
  •  
  • 06:54  これはハイエクの理論の説明だ。人間には能力の差があって、その違いを報酬は反映するべきだ。それを平等にしてはいけない。という俗説の自由主義といかに違うか。機会の平等と結果の平等はちがうという卑しい自由主義者と社中を重んじる慶應精神は違う。慶応で教えるとは、18世紀の啓蒙主義の実践。
  •  
  • 06:56  背中で教える。知識や方法は面と向かわないと教えられない。だから教えない。これは若き友と一緒に学ぶ。教え始めたときは30歳の始めだから、体力もあり、博士論文を書いたばかりだから知識も技能も絶好調。教えたいんだよね。そんなときに「背中で教えろ」。これは難しい問題だった。
  •  
  • 07:00  SFCの1期生と2期生と一緒になって研究室を立ち上げた。産学協同を考えたが、日本は60年代の大学紛争の影響で、企業と大学とのパイプは切れていた。あっても工学部の就職斡旋が実体だった。いまでは信じられないことだが、大学の研究環境の国際水準と比較しての劣悪さが話題になっていた。
  •  
  • 07:02  慶應はようやく戦後の経済危機から脱出しようとしていた。これも信じられないだろうが、日本の私学はその資産の多くを満州国の国債に吸収されて、財産を失う。ゼロかマイナスからの出発である。国も研究資金の拡大を計画していた。研究や高等教育に対する投資が始まろうとしていた。
  •  
  • 07:04  SFCはそうした状況で始まり、大きな成功をおさめた。だが口の悪い評論家は文科省が高等教育と研究の計画を大きく変更するための実験台ととして使われた、と週刊誌などで批判した。学生の転職率の高さが批判された。理系的能力の低さをあざ笑う著名な経済人もいた。
  •  
  • 07:07  だが、SFCの初期の学生から次々と社会で活躍する人間がでた。彼らはいま40歳ちょっと前だ。あと20年、日本の社会を大きく変えていく先導に経つだろう。SFCの当時の若手教員(いまや50歳代も後半から60歳代だ)は結局学生と友に学び教え教えられ走ってきた。
  •  
  • 07:10  当時僕は民族誌の手法を学んできたばかり。大学院の始めくらいに習う手法だ。それを大学一年生に教えた。高橋潤二郎氏の考えで、学問の本質をがつんと18歳にみせろ、というわけだ。梅垣さんと草野さんと僕が、ならばと本物の学問を展開。首切り3科目と呼ばれたが、この授業を懐かしむ卒業生は多い。
  •  
  • 07:13  未熟な学生がフィールドに飛び込み、当時はビデオカメラを回す。相手に対して暴力的な行為をするわけだ。これに対して、危惧をしめした教員は多かった。たしかに失礼な話だ。ビデオカメラをまわすまでの人間関係を作る。ここを教える。知識や倫理を振り回してもだめだ。道徳的なことを言ったって無駄。
  •  
  • 07:16  考えたのが、「フィールドワークは調査対象を尊敬しないと駄目。心から相手を尊敬したときに初めて相手とのラポールを構築できる。」社会的弱者をかわいそうだからと慈善の気持ちで接するのではなく、尊敬する。相手の尊敬するところを見つければ、相手も変わる。自分とちがう他者をどう尊敬するのか。
  •  
  • 07:18  そのプロセスの中で実は自分が変わる。教師はそのプロセスを助ける役割しかない。学生が自分で見つけなくてはいけない。見つけられない学生をあれこれ指導する。その姿をみて、つまりは僕の背中をみて、学生は他者とのコミュニケーションの意味を学んでいく。こうして解釈学的文化人類学を教えた。
  •  
  • 07:20  100名以上も学生はいたので、全員が学んだわけではない。これはしょうがない。でもこのプロセスを通じて多くの学生がそだっていった。Aは20%。その後研究室に加わった学生の中には「なぜ僕がAではないのだ!その理由を探りたくて参加した」という学生もいた。学部教育としては良かったと思う。
  •  
  • 07:22  その後研究室はテーマを色々と変える。一番大きな変化は大規模なVR設備を作る研究からユビキタスコンピューティングへと変えたときで、大学院生が一人になり学部も2〜3名くらいになった。次の学期から今度はいきなり学生の数が増えて、再び、大きな研究室になった。
  •  
  • 07:24  「いやテーマをかえたら学生が減って、でもそのあとまた増えて」と1期生と会っているときに話したら「先生は5年に1回やることを突然変えますから」と言った。「えっ?」と思った。僕なりに一貫しているのにな、と。でも学生から見ると先生はかってに新しい方向に進んでいってしまう。
  •  
  • 07:31  学生はそれを追いかける。官軍と彰義隊の戦争中にF・ウェイランド『経済学原論』を読んでいたのは有名な話だ。いずれにしても自分の学生と一緒に自らを鍛えていく。啓蒙主義でありかつ半学半教だ。彼の思想は結局明治政府には反映せず、慶應の中に啓蒙主義と功利主義の融合した思想が残る。
  •  
  • 07:44  19世紀後半から20世紀における資本主義と民主主義の融合の偉大なる先導者が福沢であり多くの門下生達だ。21世紀、200年に一度の大変動期にあたり、これから30年ほど、どのように資本主義と民主主義を摺り合わせていくか。英米の功利主義哲学をこえて、どこに行くのか。これが問題だ。
  •  
  • 07:46  ようするにこうした大きな問題を実践の中でみつけようというのがKMDであり、こんな難しい問題には答えはないので、正面切って教えることは出来ない。ただひたすら学生と半学半教で、机を並べて(教壇で偉そうに喋るのではなく)進んでいくしかないのだ。その姿をみて、学生は育っていく。
  •  
  • 07:54  KMDの博士課程の多くの学生はいずれ大学の教職につく。彼らには「背中で教える」ということを僕が習ったことを参考に機会があれば説いている。背中で教えれば、学生の愚かさ未熟さは自分の愚かさの鏡像でしかない。研究への意欲や心構えの未熟さは自分の未熟さである。だから必死に直そうとする。
  •  
  • 07:56  若手教員の一人が「学生の研究への態度が疑問です。あれではちゃんと研究が出来ない」とある時言った。「そんなことはないよ。君だって同じだった」と僕。「そんなことはないですよ。最初の学期だけでないですか」と彼。「だから最初のときにだれだれのへらへらだったではないか。」と僕。
  •  
  • 07:59  大体みんな最初はたいしたことはない。それでいいのだ。そのだれだれにきちんとした態度を教える。これは背中で教えるしかない。知識や技法でえばっても、態度が変わるわけではない。背中でおしえて、人間性や人生への態度を変えさせる。知識や技法はともに学ぶ。仲間との連携が大事。それが実学。
  •  
  • 補遺:当時の学生の今の例として
  • 19:35  @SamFURUKAWA 松井久子監督のレオニー、石井先生との対談でお話を頂いたときに画面に表示したサイトは、こちらです。>>この映画の実現には牛山朋子さんが。SFC時代の奥出研2期生。「うまれる」も彼女がプロデュース。http://www.umareru.jp/staff/  [in reply to SamFURUKAWA]
  •  
  •  

0 件のコメント:

コメントを投稿