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2010年12月2日木曜日

量 子力学的世界観とインタラクションデザイン その6

  • Wed, Dec 01

  • 17:53  量子力学的世界観とインタラクションデザイン その6 
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  • 量子力学的考え方のポイントは唯物論観念論が行ったり来たりつまり反転するところにある。実在を観察して存在を確認するためには実在に対して超越する必要がある。この意識は神の存在と同じである。
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  • 17:58  「唯物論は、まさに自らが論破しようとした宗教へと転ずる」(189頁)と大澤氏は述べる。すると宗教そのものに唯物論と観念論が存在する。ではこの両者をわかつ境界線はあるのか?それは否定的な存在としてある。キリスト教ではキリストがつまり神が死ぬ。神の存在を否定するのだ。
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  • 18:01  普遍的な真実ではなくて、キリストが死んだという歴史的事実、世俗的・経験的世界の中にある他者によって媒介されているのがキリスト教の真理だと大澤氏は議論を続けていく。この視点は唯物論だ。ここでは宗教が今度は唯物論になる。この反転が量子力学の本質的な特徴だ。
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  • 18:03  このあたり、なかなか難しい。ある現象が二つの異なった推論で正しいと証明されているとき、パラドックスだと考えるか、別の考え方があると考えるか、ということである。ニュートン的アインシュタイン的な合理性の枠組みに従って量子力学的現象を説明しようとすると唯物論と観念論との反転が起こる。
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  • 18:08  どちらも正しいという現象を理解するために「二つの孔の実験」を紹介した。光子や電子が二つの孔があるスクリーンを通過すると波のような干渉縞ができる。1個の電子でも同じだ。ところが孔を通過する光子を観察すると粒子のままで干渉縞は出来ない。光子を観察してしまうと粒子で観察しないと波だ。
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  • 18:17  さて、そこで最初は観察しないで、孔を通過した後(観察されていないのだから波の状態だ)いきなり観察すると波なのではないか?と考えた人がいる。ジョン・ホイラーという。彼の実験は「遅延選択実験」と呼ばれた。1970年代には思考実験として登場したがその後実際に実験が行われた。
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  • 18:35  大澤氏は議論を続けるが、ちょっとここで復習。光子が二つの孔をとおって目標のスクリーンに到達すると干渉縞になる現象は、光子がスクリーンに着弾するまで過程に注目すると説明が出来る。2つのスリットを通った粒子が着弾点で波に変わって干渉を起こしたのではない。着弾点を決定する過程が大切。
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  • 18:36  着弾点はニュートン力学で決定論に決まるのではなく、確率過程としてしか存在しない。これはサイバネティックスの基礎なのであらためて説明する必要があるが、この問題はさておき、干渉縞が出来る現象は光子がどちらのスリットを通ったかは関係ないのだ。
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  • 18:48  干渉縞形成に必要なことは、粒子が干渉縞をつくるように着弾することである。当たり前のようだが、ここが胆である。粒子は確率規則つまり干渉縞のような散らばり方をしている。じゃあどうして確率なのか、はよく分からない。二重スリット実験では説明できない。遅延選択実験はここを説明しようとする。
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  • 18:53  二重孔実験においては、粒子として観測しても、確率的に波としての性質がスクリーン側(着弾側で)観測される。観測すると波動関数が収縮する。粒子が「あ観察されている、波に変身!」と思っているわけではない。波であり粒子であるとはどのような状態なのか、ここが問題なのである。
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  • 18:58  John Archibald Wheelerが提唱した遅延選択実験は粒子として観測しようとしても波の性質が失われないことを説明しようとした。さてここからの説明は非常に難しいところだ。しばらく大澤氏の説明をパラフレーズしてみよう。(191頁)
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  • 19:01  光子が孔を通過する瞬間を観測すると粒子である。ではその直ぐ後を観察すると波になっているのではないか?しかしその時も粒子のままであった。つまりスクリーンには干渉縞は出来ない。孔を通過した後「観測された」と意識すると、孔を通った瞬間にさかのぼって「粒子」になってしまう
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  • 19:03  後に起こったことが、因果的に、それ以前の出来事を規定する」(191頁)現象が起こっている。光子が孔を通った後に観察しようと我々は決めているので、あらかじめ光子は観察されると知らないはずなのだ。つまり「認識が出来事に対して、絶対に還元できない後れを取る」。
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  • 19:05  これが量子力学の革新的な特徴である。そうであったことという形式でしか出来事は観察されない。古典力学では認識と出来事の間のズレを幾らでも小さくすることが出来る。出来事が起きたとたんに観察できる。だが量子力学では起こったことしか観察できない。
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  • 19:09  実はここは情報という概念をいれると説明できる。サイバネティクスはまさにそうして生まれた学問である。だが情報は物質ではないので物理学の枠を越えていってしまう。詳しくは次のサイトを見てもらいたい。http://xtel.sfc.keio.ac.jp/theory/dourish/
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  • 19:13  この実験は物理学者の中ではまだ議論が続いているが、世界観としては画期的だ。なぜなら物理現象の外部の超越的な存在を前提としていた古典力学に対して、量子力学では「観察されるべき出来事を構成している個々の対象が、すでに、それ自体で、何かを認識しているかのように振る舞う。」(192頁)
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  • 19:15  つまり対象自身が知識をもっている「ように」振る舞う。我々の知は対象に対してつねに遅れをとっているのだ。したがって観察は特権的な場所から対象と同じ場所へと存在を移動させる。「宇宙に内属する観察者」となるのだ。
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  • 19:21  遅延選択実験に関しては上手な説明がいくつかWebサイトに上がっている。後ほどいくつか紹介する。とりあえずはここまで。理解できただろうか?
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  • Thu, Dec 02
  • 01:31  ホイラーの実験については僕は次の説明が好きだ。http://bit.ly/fJkjCr 反論もあるので物理学の理論として扱うときは慎重さが必要かも。しかし考え方つまりは世界観としては非常によく分かる。さて話を続けよう。
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  • 01:34  量子力学が分かった感じがするためにはこの「遅れ」の感じが非常に大切になる。光子が波であり粒子であるという二重性は直接に観察していないときだけである。従って、量子力学の「不確定性原理」は次のように説明される。
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  • 01:36  あ る事象が生起している時間について厳密に知ろうとすると、その事象のなかに登場する粒子の不確定性が高まってくる。つまり極端に短い時間を設定するとエネ ルギー保存則が破られて生まれるはずのない粒子が生み出される。つまり無から粒子が飛び出す。ここが量子力学のポイントだ。
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  • 01:40  さ らに、エネルギー保存則が破られている瞬間は観測されない。これが「真空の揺らぎ」である。これは社会科学を勉強している人間にとっては衝撃的な話だ。物 理学者は存在するとは知覚することであり、ニュートンに反対したバークリー司教はこのことを知っていた、と説明するだろう。
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  • 01:56  だ が、社会学者あるいは人文科学者からするとこの話は強烈だ。ニュートン物理学の真似っこをしてリカードなど英国系の経済学者は等価交換における価値の問題 を論じてきたが、資本主義の現場では剰余価値がどんどん生まれていく。借金さえ出来れば元手がなくても余剰価値を算出できる。(194頁)
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  • 01:59  こ れはいったい何なのだ?社会科学人文科学にとっての量子力学的世界観はこの問題にどう答えるかにつきると言っていい。資本主義はその成立時から自分の外部 を内部に組み込み消費するシステムであった。生産した商品を売却して剰余利益を得る。そのためには商品を流通させる地域が必要になる。
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  • 03:18  第 2に商品を作るための原材料(不変資本)の供給源として外部の市場を必要とする。第3に安価な労働者をもとめて資本主義は外部に拡大する。これを可変資本 の拡大という。だが地表が有限である限り外部を内部化する運動は限界に達する。商品を売る市場と作る材料と作る労働力に限りがある。
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  • 07:19  市場資源労働に限界があることから資本主義は拡張しなくなる。ニュートン的に考えると合理的なシステムが均衡状態になると永遠にシステムが継続するはずだが、実際には経済活動は頭打ちになっていく。植民地による拡大が終了した19世紀末の社会的な雰囲気だ。
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  • 07:22  こ こからは僕の意見だが、この厭世的な世界観フロイトウィリアム・ジェームスの考え方に反映していた。そしてこの時代は熱力学が発達した時代でもある。 エントロピーの考え方が普及して、外部からエネルギーを取り込むことが出来なくなったシステムは熱を放射することが出来ず冷えていく。
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  • 07:24  西 洋文明は終わってしまうのではないかと熱力学の理論を知っておもった知識人は多い。大澤氏は資本主義が飽和状態になって終焉を迎えつつあるという意識は レーニンの思想に現れているという。(197頁)それを帝国主義と呼んだ。ルクセンブルクも帝国主義が資本主義にピリオドを打つ、と述べている。
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  • 07:28  資 本主義の「死」は第一次世界大戦でありロシア革命であり、大恐慌だ。この時期が第二の科学革命である量子力学が誕生した時なのだ。ところで21世紀になっ た現在、資本主義はまだ死んでいない。一つにはシステムの外部に時間を取り入れている信用取引による金融資本主義が生きのびたからだ。
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  • 07:33  粒子はどこからともなくエネルギーを借りてくる。不確定性原理だ。これは「信用取引によって実際に売れる前から売上金を得てしまっている商人」のようだと大澤氏は説明する。(198頁)ここはキモだな。
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  • 07:39  量子力学的世界観を物理的世界だけで展開すると、原爆みたいなとんでもない成果もあるが、それだけではない。コンパクト・ディスクや液晶テレビなどもその成果だ。コンピュータとか携帯電話もそうである。理工学部であれば学部の初期に勉強する。
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  • 07:41  こ の世界観を社会科学や人文科学を勉強する学生に知ってもらう。これはSFC創立の時の大きな狙いだった。NHKの解説委員だった赤木昭夫先生に講義をお願 いした。だがこの大切な授業が学生には理解できなかった。いまあらためてSFCで講義を行っているが、この世界観は非常に大切。
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  • 07:43  閑 話休題。19世紀末からの資本主義の迷走ぶりと量子力学の誕生には同時代的な関係がある。もっとも大澤氏が賢明にも説明しているように「類比的関係をうち たてたところで量子力学そのものの謎がとけるわけではない。」(199頁)ニューエイジとよばれるなんちゃって宇宙観とは関係ないのだ。
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  • 07:48  「等 価交換がなされているはずなのに、剰余価値を生み出す市場に似て、量子力学の世界ではバランスが崩れている限りで事物は存在する」のだ。つまり資本主義は 「その内部に包括しうる行為や経験の領域を拡張し続ける運動」である。つまり不断の動的な不均衡によってのみ安定化することが出来る。
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  • 07:51  こ のあたりの大澤氏の説明はうまい。静的な均衡のミクロ経済学を理論として学び、動的なマクロの世界は思いつきで説明する普通の経済学者とは違っている。外 部をみつけては自己を拡張してそこに不均衡を作り、エネルギーを生み出していく。この動きが不可能になった時代に量子力学が誕生する。
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  • 07:55  資 本主義の誕生とニュートンによる第一次科学革命の誕生は同じだ。このことは前に説明した。初期の商人が普遍性のエトスつまりはプロテスタンティズムの倫理 をもとめたように、時代が普遍性を求めていた。哲学においてはデカルトの登場である。哲学史という分野ではお定まりの物語だ。
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  • 08:28  僕 はこのあたり、慶應の文学部で池上明哉さんの授業で学んだ。数名しか出席していなかったと思うが、デカルトのテキストをフランス語で、イギリス経験論ヒュームを英語で、カントはドイツ語の原文をひいて一年間説明していた。個人的に口を利いたこともなくただ授業を受けただけだ。
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  • 08:31  だが大陸合理論イギリス経験論が認識において対立し、それがカントで統合され、結局現象学でまたなんだか分からなくなる、という歴史は非常に新鮮だった。いま現れていることをどう認識するかがポイントになる。大澤氏の説明に従ってこの流れを理解してみよう。
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  • 08:38  資本主義が勃興していた17世紀は哲学者が現れの特殊性の過剰反応していた時代であり、ミシェル・フーコーは「表象の時代」と呼んでいる。現れていることが普遍的な真理や本質とかけ離れているのは何故かを考えていたという。この時代の哲学者の代表がデカルトである。
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  • 08:41  デ カルトは今見ていること感じていることいや考えていることすら偽りであるかもしれないと考える。これが方法的懐疑だ。「悪意ある、狡知に長けた霊」が私を 欺いているだけかもしれない。(200頁)デカルトは懐疑しているつまり現れが普遍的な真理か確証できないことが普遍的な存在の確証とした。
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  • 08:49  デ カルトの言葉を大澤氏は引用する。「私の内に、私自身が原因ではありえないものー無限の神についての観念ーが存在している以上、神が存在しているのだ」。 デカルトはここを起点に人間にはアプリオリ(先天的に)理性が備わっており、論理的な推論を繰り返すことで原理を見つけ方法を演繹するとした。
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  • 08:53  哲学史ではこうした演繹的推論を主張した大陸合理論にたいしてイギリス経験論という別の考え方をする哲学者を対立させる。ロックやヒュームである。ヒュームは我々が真理と思っていることは「知覚されたことがらの間の習慣的な、それゆえ偶然的な結合でしかない」とした。
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  • 08:58  僕 とプロジェクトを行ったり、博士論文を書いたりしているKMDの学生に必ず読むようにすすめているのが、戸田山和久『科学哲学の冒険:サイエンスの目的と 方法をさぐる』である。このなかで戸田山氏は「ヒュームの呪い」として経験主義と帰納法のやっかいな点を説明している。
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  • 09:02  僕が好きなのは哲学者ラッセルの作とも言われる次の小話だ。Wikipediaの帰納のエントリーにも入っていた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D
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  • 09:02  ある七面鳥が毎日9時に餌を与えられていた。それは、あたたかな日にも寒い日にも雨の日にも晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの七面鳥はついにそれを一般化し、餌は9時になると出てくるという法則を確立した。
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  • 09:04  そ して、クリスマスの前日、9時が近くなった時、七面鳥は餌が出てくると思い喜んだが、餌を与えられることはなく、かわりに首を切られてしまった。つまりは 「人間の心に与えられているのは限定されたあらわれー知覚的な現れーのみであるとした。」(202頁)演繹的にも帰納的にも説明できない。
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  • 09:07  哲 学的に対立したままの問題を「解決」したとされるのがカントである。経験的に知覚されうることで合理的に説明できることだけを真理であるとしたのだ。この あたりは普通の哲学史的な「常識」なのだが、すこし違う角度から説明してみたい。ここは大澤氏ではなく僕のまとめである。
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  • 09:15  池上先生の授業では大陸合理論とイギリス経験論をたっぷりと解説した後で、 カントの「コペルニクス的転回」の説明になった。つまり哲学をものの研究から人間の研究に変えたのだ。
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  • 09:16  それが『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』3部作なのだ。ここの批判はcritical readingというときの批判。つまり詳細に論理的に検証するの意味だ。
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  • 09:16  で、 次にアプリオリカテゴリーの話になった。人間には生得的(アプリオリ)に感性悟性の認識形式が備わっている。感性は空間と時間を直感する能力で、悟性 はカテゴリーを認識する能力である。でここからが混乱したのだが、カテゴリーは空間と時間にschemaによって関係する。
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  • 09:20  いま思い出して書いているが、この説明には参ったね。つまり本質とは形だというわけである。合理的な形が真実を保証して、その形にあった行動が倫理つまり善を約束し、その形にそった表現が美を生み出す。真善美だ。うーん、そんなわけはないだろう、と思った。
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  • 09:22  18 世紀19世紀の人はそう思っていた(らしい)。ここで大陸合理論とイギリス経験論を融合させた超越論的哲学がカントによって定式化される。ここを勉強する のが正統派哲学者とされたのだ。木田元『反哲学』という魅力的な本を出しているのは「俺はそう思わない」というメッセージだ。
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  • 09:24  大 澤氏も僕も木田氏と同じ意見。真善美が一体化した超越論的哲学ってなに?ってなもんだ。19世紀末から20世紀初頭にかけてカンと哲学と表裏一体のニュー トン的物理学の世界が揺らぎ始め、量子力学的世界観が登場する時代に、現象学が登場する。フッサールが表れと本質に関する考え方を変えるのだ。
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  • 09:28  RT @nanaminekomushi: 「科学哲学史(4) 論理実証主義の問題」http://bit.ly/ckeFRI QT @NaohitoOkude 僕が好きなのは哲学者ラッセルの作とも言われる次の小話だ。Wikipediaの帰納のエントリーにも入っていた。htt ...
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  • 09:32  僕も大澤氏も現象学を学ぶところから大学生時代の勉強を始めている。フッサールと後期ヴィトゲンシュタインの著作はは実に興奮して読んだ。今日はここまでにして続きは後ほど。

  • @kotobuki 機内での読書は、まだ第1章しか読めていない「量子の社会哲学」の予定です。この機会に一気に読み進めなくては…。
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  • 09:37  Blogの「参考書」を片手に頑張って読み進めて下さい。時間軸の入ったインタラクションデザインがゼロから意味や感動を生み出す仕組みになる話ですから。
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  • 19:37  量 子力学的世界観とインタラクションデザイン その6(続き)さて話はフッサールの現象学まで来た。19世紀末から20世紀初頭にかけてフッサールによって 提唱された現象学は表れと本質の関係を大きく変えた。我々が普通に表れを体験している状態を「自然的態度」と現象学では呼ぶ。
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  • 19:40  自 然的態度によって認識している表れは対象の概念的・普遍的意味が特殊に限定されている。したがって本質に到達するためにはそれを排除して「カッコ」にいれ なくてはならない。(203頁)そうすると純粋意識の領域がまっている。この作業をフッサールは「現象学的還元」と呼んだ。
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  • 19:44  現 象学的還元は消して終わらない。本質と表れの関係は「否定的な関係」だと大澤氏は説明する。表れの外部に本質があるのが古典主義時代の哲学だ。大陸合理 論、イギリス経験論、そしてカントの哲学はそとに本質つまりは神がいる。現象学においては表れを認識して本質へと向かうがその作業は永遠に続く。
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  • 19:47  こ こにいるのは「否定神学的な観察者」だと大澤氏は続ける。つまり相対性理論における誰もたどり着くことが出来ない超越論的な観測者として純粋意識が位置つ けられている。フッサールの現象学とアインシュタインの相対性理論は世界観が同じなのだ。うーん、ここの大澤氏の説明は上手い。
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  • 19:51  フッ サールの現象学を勉強しているときに腑に落ちないところがあった。カントと何処が違うのかぴんとこなかったのだ。ハイデガーにフランスのポストモダニズム 経由で出会って、興味はそちらに移ってフッサールについてそれ以上考えなかったが、ここでアインシュタインと並べて説明を受けると納得する。
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  • 20:01  い まあらためてフッサールを読んだりすることはインタラクションデザインにおいてはあまり必要がないとも思うが、知らないというのも何なのですこしまとめて おこう。まず現象学的還元とは感じたことが合理的に正しかったと確認することではなくて、これで良い、妥当だという感じをえる作業である。
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  • 20:03  そ のためにはまず主観とか客観といった区別をとりはらい、自分の主観の中で疑うことができないものを探し出す。ただしこれが単なる思いこみかもしれないので エポケー(Epoch)という作業をする。これが括弧に入れるということだ。そして残るのが純粋意識である。なるほどね。
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  • 20:08  フッ サールの「純粋意識」は、どのようにしても疑い得ないものである。あれ、これってデカルトのコギト(cogito)じゃないか?だがフッサールは続けて、 コギトはコギタチオ(cogitatio)コギタートゥム(cogitatum)からなるという。つまりは意識意識作用意識内容だ。
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  • 20:13  さて、ここからがやっかいなところだ。ここに「机がある」と知覚しても、それは実際そこにある机そのもの全体を知覚したものではない。なぜなら机の裏側は知覚していないからだ。さらに、「机がある」と知覚するときに違った机ではなく「机というもの」として意識している。
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  • 20:18  うー ん、プラトンまで戻っていくのか、とこの説明を聞いたときには思ったね。フッサールはここで釘を刺す。ここでの「超越」は神あるいはイデアのように何かを 超越するものではない。むしろ「内在」しうるものだとする。我々が自己の経験のなかにもっている知覚における不可疑的な感覚のことである。
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  • 20:21  フッ サールはこの状態、つまり人間が初源的な事実性を感じている状態を分析してみせる。これが有名なノエシス・ノエマ(Noesis・Noema)の考え方で ある。フッサールは知覚と知覚対象を分けて考えた。知覚あるいは意識の作用的側面をノエシスと呼び、対象的側面をノエマと呼ぶ。
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  • 20:28  さて、ここからフッサールの大切な概念、間主観性が出てくる。それは私も他者も心と体をもっていて、それぞれ自分の主観的に疑い得ない世界を持っている。自分の主観的世界の相手の主観的世界が乗り込んできたとする。
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  •  Fri, Dec 03
  • 00:02  現 象学で理解が絶対に必要な身体性(embodiment)の概念もここから必要になる。つまり主観的な二つの世界に類似性を見つけ、感情移入が可能になる たえには、自分の身体を他者の身体に重ね合わせる作業が必要なのだ。他者の身体を自分の意識の延長として感じる。間主観性が生まれる瞬間だ。
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  • 05:48  さ て、現象学における間主観性の説明までをふまえて大澤氏はフッサールにおける純粋意識が相対性理論における否定的な観測者の位置と同じであると指摘する。 ガリレオ的な絶対的な座標軸つまり絶対時間と絶対空間ではないけれど、誰も到達することが出来ない観察者が見ている空間と時間は存在している。
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  • 05:54  こ の空間と時間はまがっていて、時間軸がくわわった4次元空間である。数学的に理解することは非常に難しいし、アインシュタイン当人も数式にするときは数学 の得意な研究者を必要としていたといわれている。だが世界観としてのアインシュタインの発見はニュートン的な世界の延命を可能にした。
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  • 05:56  フッ サールが間主観性を提案しながらも背後に形式的な純粋意識を想定していたことはアインシュタインの態度と同じだ。『論理学研究』『イデーン』を執筆して いたフッサールはアインシュタインと同時代人である。現れと本質の関係についての哲学史的流れは科学革命の歴史と同じ認識の態度の歴史だ。
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  • 06:04  プ ラトンからフッサールまで、我々が知覚できるのは「ヴェール」までで、その背後の本質を認識できるのは神だけであるという世界観は実は変わっていない。量 子力学が第二の科学革命と呼ばれるのはニュートンからアインシュタインまで本質としての神を「無限としての神」とした考えを否定したからだ。
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  • 06:13  昔、 苦労してフッサールの哲学を学んだあと、その結果にあまり感動しなかったことを覚えている。大澤氏はこのあたりを上手くまとめる。現象学的還元とは「われ われがみているものはヴェールだと見なすが、同時にそのヴェールのはがしかたを提案した。」(207頁)たしかにこの操作に感動した。
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  • 06:17  だが「いつまでも本質にたどりつけないが、しかし、ヴェールをはがし続けるという操作が意味をもつためには」本質がどこかになくてはならない。」(207頁)つまり、結局同じか?という気がした。世界観を記述する数学のレベルが(次元が)上がっただけ、というわけだ。
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  • 06:20  と ころが量子力学はこの世界観を変えてしまった。相対性理論で超観察者として存在していた(いくつもの座標系を通約する)光とか現象学における純粋意識が存 在していないのが量子力学的世界観なのだ。この世界観においていままで議論してきた現れと本質の関係はどうなるのだろうか。
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  • 06:23  プ ラトン、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、フッサールにいたるまで、現れの背後にある本質をいかに正しく認識するかが問題であった。だが量子力学 においては「現れ」の背後あるいは向こうに「本質」あるとはしない。いくつか量子力学的世界観を理解するキモを紹介したが、これもその一つだ。
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  • 06:27  ニュー トン力学では粒子の位置と運動量を特定できたが量子力学的現象はそれだけでは粒子の動きを説明できない。これが2つの孔の実験の示すことだ。「波動」とい う「本質」が直接我々のまえに現前することはない。大澤氏の言葉を引こう。「粒子としての現れの不十分さにおいて暗示されているだけ」だ。
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  • 06:30  特 殊で多様な現れを包括するのが「本質」だとされる。我々は小学校の時からそのように思考することを教えられてきている。だが量子力学はこの見方を否定す る。19世紀末から20世紀初頭にかけて資本主義という社会システムが崩壊を始める。それと同時代的に物理学の世界も第二の科学革命に向かう。
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  • 06:32  こ の変化を喜劇役者のマルクスブラザースのジョークで大澤氏は説明する。「こいつは愚か者のように見えます。愚か者のふりをしているのです。でも皆さん、惑 わされてはいけません。奴は本当に愚か者なんです!」つまりヴェールの背後になにか凄い本質があるのではなくて、同じヴェールしかない。
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  • 06:40  古 典的哲学の世界観は20世紀前半でかなりの打撃を受けたが、全体主義と共産主義の登場と第2次世界大戦をへて復活していた。むりやりだが世界を合理主義的 な枠組みに押し込んだのだ。現象学をよみなおしながらこの枠組みに挑戦したのがフランスのポストモダニズムの哲学者達だ。
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  • 06:42  だが、壊したさきに全体主義と共産主義の亡霊をみる。僕であれば「ハイデッガーがナチズムの支持者だったって!?」いやだな、という素朴な驚きを持った。古典的世界が退場するととんでもない亡霊がでてくる。この問題をひきうけているのが現在のイタリア現代哲学である。
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  • 06:47  岡田温司さんの『イタリア現代思想への招待』をパラフレーズしながら、「イタリア現代思想 美学を考える」と「その2」 でこの問題を詳しく論じておいたので参考にしてもらいたい。http://bit.ly/cCOfWz http://bit.ly/aR1UA9
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  • 07:01  さてイタリア現代思想ではバロック的視点と神学的視点が注目されている。キリスト教では神(本質)はキリストとして直接現れる。神(本質)とは神が惨めな人間であることにおいて神であるという自己分裂だと大澤氏は述べる。(211頁)ではブッダはどうなのだろうか?
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  • 07:07  ブッ ダ自身がその教義を理解するモデルとなっている。本質がブッダの行為に現れている。古典哲学的世界だ。だがキリスト教では人間としてのキリスト(現れ)に 神(本質)が「直接に随伴している」(212頁)二つの対立的な規定が同時に存在している。これは量子力学の粒子と波動と同じだ。
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  • 07:13  波 動は決して「現前」しない。観測したとたんに波動は姿を消すのだ。同じようにキリストは死ななくてはならない。キリストは死ぬことで神になるのではなく て、神であるキリストが死ぬのだ。神であり人間であることは神の死によってのみ説明できる。ここでキリストに死をもたらす暴力の問題が出てくる。
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  • 07:16  こ こまで議論をすすめて20世紀の重大な思想家ヴァルター・ベンヤミンが大澤氏の本に登場する。古典主義的世界の先になにが来るべきなのか、この問題と全体 主義と共産主義の問題を考え、次にむかっていく大切な思想家が登場して量子力学的世界観の話はさらにすすむ。このへんで第6部は終了だ。
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  • 07:19  第 2次世界大戦前に登場してきた量子力学的世界観とそれを覆い隠してきた第2次世界大戦後の古典的世界観の復権の問題はシュンペーターという経済学者をどう 理解して21世紀の社会システムのデザインに活用していくかという大問題を含んでいる。いずれ詳しく講義をしたい。(この項 完)

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