analysis

2010年10月16日土曜日

創造性とコンテキスト:開かれたデジタルコミュニケーションにむかって

  • Fri, Oct 15

  • 09:12  創造性としったかぶりの関係は面白い。ぐっと来る創造的な表現を、それは誤用だと教条主義的に判断するけど、それが言語の詩的創造だったりする。「間違い」じゃないんだな。最近の例だと「的を得る」がある。
  •  
  • 09:14  例えば、ATOKが「的を射る/当を得る」 のどちらかを選べと迫るが(いまもそう)、「そうそう、その言い方、そうだよね」というのは「的を得た」表現に出会ったときの感覚だ。意味は創造されていく。語源から状況に合わせて比喩的に引用されて新しい意味を生み出していく。これが詩的作用
  •  
  • 09:20  めちゃめちゃをやっているわけではない。ある表現を別のコンテキストに植え替えていく作業だ。そのときに意味があるいは美が生まれなくてはならない。美学的あるいは詩的判断が必要になる。連歌という集団制作の伝統をもち、戦国時代には俳句と結びつき俳諧連歌となり江戸時代に盛んになる。
  •  
  • 09:22  連歌は詩の作り手同士が強烈にコンテキストを共有する。食事をしたり酒を飲んだりしながら作っていく。今までの表現を新しいコンテキストに入れたり、共有しているコンテキストに新しい表現を放り込んだりした。コンテキストを離れて俳句を成立させようとしたのが正岡子規なのだが、この話は改めて。
  •  
  • 09:43  カトリック教会仏教もそうだが儀礼が行われる場所でコテキストを共有しながら今で言うマルチメディアで表現行為を行っていた。場所と食事を共有する。饗宴だ。コンテキストを共有するということはそれを共有しない人間を排除するということでもある。排他性と表裏だ。
  •  
  • 09:46  カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』に詳しいが、16世紀に教会とことなる考えを持って異端とされていた人が多くいた。コンテキスト共有に馴染まないわけだ。グーテンベルグの活版印刷機によって聖書が印刷され、教会でなくても聖書を自分で読めるようになる。ここから宗教改革が始まる。
  •  
  • 09:47  聖書というテキストから生まれる意味を自分で解釈していい。あるいは牧師の説教を聞いて聖書の意味を理解すればいい。この瞬間キリスト教は教会というコンテキストから放たれたのだ。もちろんそのコンテキストが不変ではないことが大航海時代による「異文化」との遭遇で発見されるが、これも別の話。
  •  
  • 09:51  さて、テキストから意味が生まれる。テキストと意味の関係が強化され、コンテキストが希薄化される。ここから近代が始まった。18世紀の啓蒙時代を経て19世紀に制度として確立される。カソリックの神父でもあったマクルーハンは活字テキストだけで意味が成立するという考え方に疑問を持つ。
  •  
  • 09:53  イギリスの詩人を研究しているときにその疑問に遭遇するのだが、そこにテレビが登場する。ネットワーク化されたテレビを見ている人たちは新しいコンテキストを共有しているのだという啓示をうけたのだ。まるでカソリックの教会の儀式のようなマルチメディアのコミュニケーションをテレビが可能にする。
  •  
  • 09:55  コンテキストを濃密に共有する村でのコミュニケーションのようなことが可能になると閃いたのである。マクルーハンのメディア論はここから始まる。テレビ番組の愚劣さを指摘する活字型文化人はいまもいるが、もともとコンテキストが濃厚なコミュニケーションは合理的聡明さを基本にする表現とは異なる。
  •  
  • 12:59  コンテキストを濃密にしたコミュニケーションは神話と同質であり、幻想の世界につながる。だがそこでの表現を作っている人間にとってはそれは規則による操作だ。映画のシネマトロジーなどがそれに相当する。魔法をかける合理的な方法がある。フルッサーはこれを「テクノコード」と呼んだ。
  •  
  • 13:04  神話に惑わされないために、合理的な歴史意識を持つのではなく、神話を作る方法を習得して、自らも別の神話を作りだす。だが、神話を作り出す方法に巨大な資本が必要な時代には、抵抗神話をつくりだすことは不可能だった。あるいは革命で設備を乗っ取るしかなかった。ゲリラがテレビ局を占拠するとか。
  •  
  • 13:06  インターネットとデジタル機材の価格の低下はマクルーハンが予言したようなネットワークによる重層的コテキスト重視社会つまり村社会の再生を可能にした。グローバルビレッジである。この新しいコンテキストで何を表現していくか、つまりは創造性が必要になってきている。ここに注目することが大切だ。
  •  
  • 13:20  コンテキストが支配的な表現やコミュニケーションの範囲は広い。言語に関して言えば、母語としての英語のコミュニケーションの世界がある。だがこれも英国やアメリカ合衆国だけではなくて、さまざまな「民族」英語がある。同じように中国語や日本語のコミュニティがある。これは巨大だ。
  •  
  • 13:23  鉄道模型とかダリア栽培とか特定の趣味を持つ人のコミュニティもあるだろう。あるいはいま僕が研究している分野だと在宅医療従事者のコミュニティがある。メッセージの意味を理解するためにコンテキストの理解が必要になる、そんな表現だ。もちろんこうした「閉じた」表現だけではまずい。
  •  
  • 13:25  開かれていてコンテキストに依存しない表現が必要だ。この世界は重要だ。だがコミュニティでのメッセージ交換も大事だ。同じ分野の科学者は専門語を使ってコミュニケーションをしている。それをつなげる言語は問わない。コンテキストが同じだからだ。
  •  
  • 13:27  大量生産やマスメディアが問題なのはコンテキストから自由であることを要求しているからだ。ボードレールデュシャンは「既製品」を自分の美学で選択してコンテキストをあたえることで「モダニズム」を表現した。マスメディア広告表現に濃密な「芸術」コンテキストを加えたのがポップアートだ。
  •  
  • 13:30  コンテキストから自由であるとは単一のコンテキストを認める、ということであり、多様性の否定になる。コンテキスト依存はその逆で多様なコンテキストの存在を認めると言うことである。そして表現そのものはコンテキスト間の移動を以外と拒絶しない。むしろいそいそと移動して新しい意味を生み出す
  •  
  • 13:32  デザインするとはさまざまなコンテキストで表現されている部分を切り取り、新しいコンテキストのなかで組み合わせることだ。そのときに、コンテキストの中においても違和感がなく(Harmony)、組み合わさった要素がお互いに相互作用をしながら統一感をもつ。(Integration)。
  •  
  • 13:34  そして、最後は全体として輝く。(Radiance)。インタラクションデザインはコンテキストとの相互作用において非常に大きな働きを示す。実際の生活で使ってみて楽しい、ワクワクするデザインかどうかが大切になるからだ。写真にとってあるいは映像にとって分かりやすい、美しいだけでは駄目だ。
  •  
  • 13:35  コンテキストをふまえて魅力的な形やサービスをデザインする。当たり前のことだが、現在の教育体制ではここをしっかりと教えることは難しい。またいまデザイン思考の商業サービスが始まっているが、コンテキストを調べる民族誌的調査だけを教えたり、請け負ったりするところが多すぎる。
  •  
  • 13:38  コンテキストを知ることは大事だ。だがコンテキストをふまえて魅力的なものをデザインする創造行為はもっと大切である。そしてそれを評価する基準はいいかわるいか、わかっているかわかってないか、という非常に主観的な美学的判断である。特定のコンテキストで「的を得た」表現かどうかなのだ。(完)
  •  
Powered by twtr2src.

0 件のコメント:

コメントを投稿